いい最期のために

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「昔は俺もこうだったんだ」「こんなにすごかったんだ」そんな風にいいたがる偏屈なおじいちゃんの姿は、きっと想像しやすいだろうと思います。

もちろんおじいちゃんに限らないし、それが10代の子供に起きることもあるわけですが、上の例のままに言うのなら「俺の素晴らしさがわからない方が悪いー!!!」という状態は、その人が一体感を感じられずに、渇きの中にいることを表しています。

それまでにそのおじいちゃんがした素晴らしいことや築いた財産や得た知識や豊富な経験が、ある時点からは、すごいものではなくなります。例えば、部下がいたときなら、それらは「すごいですね」と言われる理由になったわけです。でもある時点からは「わたしたちにはよくわからない話ばかりして」「いつも自慢なんだから」と、むしろおじいちゃん自身が疎外される理由になっていきます。

それによって一体感を得られたはずのものが、人生のステージが変わると、今度は疎外感を生む原因になっていくのです。苦労して得た知識や経験や資産や人脈が「誰も俺を尊敬してくれないじゃないか!なんで、俺の素晴らしさをわからないんだ」と言わせてしまうようになるのです。こうした渇きの中にあると、余分なものは手放せないから、生前贈与で揉めたり「子供も孫も信じない」という展開になったりします。持つほど、渇くのです。

一方で、そんなおじいちゃんが全く知らないよその子と友達になって、人が変わることがあります。例えば「けん玉でその技できるの?すげー!」と言われたりして、一体感を感じられて、余分なものを持っている自分に気づき、どんどん手放していくようになります。また、そのよその子や一時期嫌だと思った自分の子供や孫に「あいつ、すごいな!」と思い始めたりします。周りが驚くほど身辺整理をきれいに始めて、その姿をみた子供や孫が「おじいちゃん、すごいなぁ。そういえば、〇〇成し遂げた人だしな。ちゃんと見えていなかったな」と思い始めます。そうすると、関係者全員がどんどん健康になっていて、おじいちゃんも血圧が安定してきたりして、最後は老衰でみんなに看取られる展開になったりします。

わたしたちは、「手放し」なら「持たない」なら、あらゆる人に尊敬の念をいだけます。一方、それが家族を含む人間関係であれ「手放せない」なら「持つ」なら、その持つすべてが尊厳を妨げて、その人を渇きの中にとどめるのです。渇きの真逆に位置する一体感は、共感からでなく尊敬から始まります。

いつもひとりじゃない。

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みんなで歌ってその一体感が気持ちよかったり、みんなで踊ってその一体感が何物にも変えがたいと感じるなら、あなたはまだ、一体感を求めるステージにいらっしゃいます。

つまり、一体感を生きている人は、一体感を求めることに意味を生成しなくなります。

一体感を生きていると、例えば、従業員0の経営者をみて「寂しいだろうな、つらいだろうな、ひとりで」思ったりしません。「同じ社会を一緒に作っている仲間だな!こころづよい」と応援する気持ちは湧くかもしれません。

一体感を感じられると「いつもひとりじゃない」と言う感覚が自然になります。だから、苦手なことを前にして、周りに物理的に人がいなくても、孤立無援の気持ちにはなれないです。「いいね」がつかなくても、見ず知らずの人も応援してくれていることが、思い込みではなく感じられる証に、苦手なことや「できない」と思っていたことに、少しずつ挑戦してしまいます。背中に感じる追い風に押されて、思いで留めていた領域に入ってしまうのです。いつも自分がそんな調子だから、自然と人を応援します。新規参入の経営者を「一緒に頑張る仲間が増えたなぁ」と優しい嬉しい気持ちでみたり、電車に乗ってすぐ、隣にいる人に「わたしの背中にいる、うちの子の帽子、直してもらえませんか?」とスッと頼めます。

つまり、一体感をいつも生きていれば、現実が見えてくるようになります。いつもひとりじゃないから、いつも現実が目に入るのです。

違いを認めるから、一体感を感じられる。

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違いを認めていると、いつまでも「この人のことがわからないから、もっと知りたいなぁ」という思いが湧き続けます。そうすると、知れたときには喜びが生まれ、つながりも感じやすくなります。シンクロしやすくなりますが、それはお互いに意識を向けているからです。

ところが、ある程度一緒にいる時間が続くと「この人のことをわかっている」と思い始めたりして、そこにあるはずの違いが見えなくなってしまいます。そう思い込んだ時点で、無視しているのと同じです。相手には、意識が向かっていません。

「あなたのことはわかっているから」と思っている相手と一緒にいるのは、しみじみと辛いものです。こちらが無理してあわせて、シンクロが起きても、相手は「ほら、わかりあえている」とご満悦になるだけで、あなたに意識は向けず、そう思っている自分に陶酔します。あなたは無視される状態が続くのです。関係にヒビが入っていくでしょう。

仕事相手であ夫婦であれ恋人であれ友人であれ、相手とシンクロしたり、つながりを感じたいのなら、あなたとの違いをいつも感じ続け、いつも好奇心から「知りたいなぁ」と思い続けるあなたを創り上げることです。

共感がうれしいと、つながりや一体感を求めるなら、相手と同じところ探しではなく、相手との違いを見続けましょう。「ただ違う」ことに、自分を開き続けるなら、仕事で人と接しているのに孤独を感じたり、恋人と一緒にいるのに寂しくなったり、友人と騒いでいるのに一体感がないという思いと疎遠になれます。

自分を介在させる

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依存的な人は、自分で感じたり考えたりせず、自分がその時依存している相手の人が感じたり考えたことを、自分で感じたり考えたことのように扱います。

例えば、何か物を買うとして、取り扱い説明を販売員からききます。それを聞きながら、そこに自分の考えや感覚を挟むことは、放棄します。そして、その説明を長い時間「正しいもの」と思い込みます。途中で自分の感覚が「これちょっと違う気がする」「これだとやっぱり気持ち悪い」と言ってきたとしても、そちらを締め出してしまいます。

例えば、調べ物をしたとしても、インターネットという情報の不確かさが高いところでのみ調べて、本は見なかったり、あるいは角度の違う三冊ぐらいは手に取ることをしません。1冊あるいは1カ所だけ見て「これが正しい」と思えたら楽できるからと、思考を停止します。

依存的だと「正しい」ことにした対象によりかかった状態を、信じると銘打ちます。「あの販売員のことを信じたのに」「あのサイトで書かれていたことを信じたのに」のようにです。そこから「自分は騙された、もっと疑わないと」と、強迫的になっていきます。

むやみに疑うなら、盲目的に信じるのと同類ですが、激しく思い込んでいるので、もちろんそんなことには気づきません。ここでは、疑いから入るのではなく、常に自分を介在させるというあなた自身を排除しないやり方を提案しています。ちなみに、常に疑いから入れと教育されるのはポリスです。

プロセスから自分の感覚や自分の考えを締め出したのは、自分自身です。自分を介在させなかったのは、自分です。これまでやってきたことの中で、あなたからエネルギーを奪うように見えていた行為も、あなた自身を介在させれば、あなたのエネルギーを高めます。

依存的で強迫的な似非ポリス状態は、他人に迷惑をかけています。道徳に照らし合わせてどうこうではなく、お世話になっていたり大好きな人に迷惑をかけても平気なら、問題です。

目の充血

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昨日お届けしたメールマガジンの補足です。粘膜が乾燥すると、簡単に言うと充血します。鼻をかむとティッシュに少し血がついたり、目が少し赤くなったりします。

だから、穢れたところにいればいるほど、目は充血し、喉が渇き、唇の乾燥が気になり始め、鼻腔内に乾いた感覚が生まれます。

もちろん、パソコンを見過ぎれば実は充血しますし、たくさん話したり喉が渇きますが、こうした使用回数による充血や乾燥だけではないのです。

作り手が清いウェブサイトは、見ていてもそうしたことは起こらず、むしろあなたのいる空間に比べて、そのウェブサイトがうんと清いなら、そのウェブサイトを見ている方が楽に感じるでしょう。また、遠くからパソコンの画面を見たときに、そこだけパソコンが発する光とはまた別の、まばゆい柔らかい光を感じるでしょう。目の奥の筋肉が緩む感覚を得る人もいるでしょう。

逆に、清い空間で作り手が非常に穢れているウェブサイトを見れば、目だけが一気にやられているような感じになるでしょう。短時間しかみていなくても、どよんとしてきて、すごく疲れるのです。後からそのウェブ画面を見ると、そこだけ線が太くて主張が激しくて、やたらと輪郭がくっきりしている印象を覚えるでしょう。改めて遠くから見てみると、パソコンに近寄りたくなくなる人もいるでしょう。

目が少しでも充血したり濁ったように見える場所やウェブサイトに、自らの力よって、自ら長く滞在していないでしょうか?ご自分を振り返ってみてください。

ミシンのある洋服屋さん

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先日、佇まいが素敵な洋服屋さんに白い猫がいるのがみえて、服は不要でしたが、猫に惹かれて入りました。

性格の良い猫で、でも店員さんが尻尾を触ったら、機嫌を損ねて奥へ入っていきました。だから私も奥に目が向きました。そしたら、奥には洋服を作るスペースがあって、ミシンが何台もあり、まさにミシンを踏んでいる方もいらっしゃいました。

お店だって、本来は作る場所と売る場所が地続きであるのが自然なのだと、はっとしました。大都市に長く住んだので、切り離された一部分だけを見る生活を長く続けました。

洋服はどこかで、かなり多くの場合海外で作られて空輸されて、その出来上がった姿だけを見て、どんな風に裁っているかやどんなデザイン画なのかをみることもなく、むしろそれは許されない感じでした。まるで誰かの指先にだけ触れるようにして、誰かが誰なのかもわからないまま、洋服を買っていました。デザイナーを知ることができても、それは雑誌などのメディアを通してで、やはり切り離された状態ででした。

奥にミシンがあって、ちらっとデザイン画が見えて、そのことに自分でも驚くほど安心しました。本来あるべき姿に近ければ近いほど、人は安心できるんだと思いました。

「顔が見えると安心する」という疑いから入る態度とは、全然違うのです。もし家で洋服を作っていたら、作りかけの洋服を何度も見ることになって当たり前です。そういう自然な姿がそこにはありました。

途切れていないから、痛みがないのです。途切れていないから、隠されたりしないのです。そもそも隠されるべきものがないのです。

「プロセスをオープンにしましょう」という眠い日に目をこじ開けるような無理は、そこにありませんでした。店舗のあり方は、どうしたら安心を生めるかを、形を伴って見せてくれました。

形が与えられた安心を、わたしの苦手な洋服という分野で見せていただけたことに、その地域の器に、感謝でいっぱいです。

Hybrid Life?

Around 5 years ago, I had a workshop in Tokyo in which I set up many branches, trunks and grasses in that room. I also used bird sounds to make people feel as if they were in nature. Participants liked it and I was satisfied with how I set up my workshop space.

This month, I went into a fruit shop in Nara. It was nicely decorated like a cafe in Tokyo. And bird sounds played in that shop. Many fruit and its products were arranged artfully. It was as if I had set up my workshop space almost 5 years ago. And I felt discomfort.

I have lived in the countryside for 2 and half years. My daily life is always a part of nature. I mean that everything is interconnected into a whole picture. Bird sounds are just a part of the nature like a pixel. Branches or fruitt are also just a part of nature like a pixel. Both are just particles but the whole picture involves space between particles and other particles. So when I entered into that nice shop, I felt the pain of unnatural separation.

When I lived in Tokyo, I rather admired such a pixelated life as a unique one. I did not feel the pain of separation. I thought that a hybrid of urban life and natural things was sophisticated. But now I know how much it is an unbalanced way of life. I experienced the world as a whole compared to how I experienced the world in my past. So now I don’t admire such a hybrid life. Because I jumped into life in the countryside with courage and already knew that it is there.

無事も幸運のひとつ

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みなさん、幸運というと棚ぼた的な利益を、連想されがちではないでしょうか?

でも、今無事に生きていることも、幸運のひとつです。何か「嫌な」ことがあった方も、「うわぁ、嫌」にとらわれはせず、そこから学んで、未来にたくさんお土産を持ち込みませんか?

「こんな嫌なことがあった!二度といや」と嫌なことを回避する方へエネルギーを注ぐと、あなたは過去の住人のままです。嫌なことをズルズル未来を引き込むことになり、未来は狭まり窮屈になります。

「無事で退屈で、何もいいことはない」とふてくされれば、人生の輝きは翳りを見せていきます。今日も無事であったことに感謝して、自分の人生の輝きを絶やさぬよう、わたしたちはわたしたちの人生を愛していきましょう。

I Should Pursue It

I took part in a casual incense burning class in Nara. I had already taken part in an incence burning class in Tokyo, so I already had some knowledge. But this was the first time to choose ingredients and blend them by myself.

Basically, incense ingredients are divided into kinds of quality ranges, like sharp to sweet and heavy to light. I had a tendency to like sweet and heavy. And almost all of them came from southern coutries like India. And herbs in southern countries improve digestion. So many participants started to feel hungry or have grumbling stomachs while blending their scents. It was very interesting.

Most of the ingredients of incense are used as spices in cooking, but it is the lowest quality. The highest quality is always used for ingredients of incence and the second highest quality is always used for chinese medicine. It came as a surprise to me. In Japan, incense sticks which were made in the Edo Era, are the most popular form of incense. But since the 6th century, incense has been used in Japan. It was fun to learn about the history of incense.

Actually, the week before of this incense class, I took part in an event of Japanese herbs. Some of them were the same. And it was very fun. So I thought that I really loved such kinds of herbs and spices and I should pursue it more! What do you pursue more?

やっちゃった〜ガハハハ!

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何か自分の望みを期待と違うことが起きたとき「やっちゃったよ〜!」と思うだろうと思います。

その時の自分の顔色や体温や感覚を思い出してみてください。青ざめたり、冷たくなったり、こわばったりしていませんか? 簡単に言うと、罪悪感を感じているとこうなります。

でも、同じ「やっちゃったよ〜」の後に、笑いがはじける経験もありませんか?中学の時に、料理に目覚めて春巻きをあげていたら、中身を詰めすぎた春巻きの皮が破れてしまって、油が放射状に打ち上げ花火のように台所に撒かれたことがありました。あれは本当に大爆笑でした。花火のようできれいでした。(今更ながら、掃除してくれたお母さん、ありがとう)母もあまりのことに「もう〜みきちゃんは!プププッ」とわたしの笑いに引きずられていました。罪悪感なかったです。

起きたことを過小評価しようと言っているのではありません。対応する必要は残ります。ただ、起きたことはサッカーでいったら、アナウンサーが声をひっくり返して叫ぶ「ゴーーールッ」なのです。起きたことは、原因でなく結果なのです。

だから「結果である、既に起きたことを爆笑しよう」と言っているのではなく「原因に向けて、ガハハと爆笑しよう」と言っています。原因に向けてしょんぼりしても、原因がより力を持つだけです。

さて、ここで原因は何でしょうか?春巻きの話だったら、中身を詰めすぎたことだと思うでしょうか? では、うんと引いて見てみてください。「やってしまった」と青ざめている人は、人生の中で繰り返し、罪悪感が顔を出してきたはずです。息のできない金魚が口をパクパクしに水面にやってくるように、繰り返しあなたの人生の中に、罪悪感は現れてきたはずです。

もしかして、これは罪悪感の仕業かも?と言う視点に立ってみるとどうでしょうか?ずっとあった罪悪感が、原因だという視点に立ってみるのです。そして、罪悪感を打ち上げ花火のように打ち上げて、爆笑して、蒸発させてしまうのです。原因が消えたから、同じ結果は生まれえませんね。

そうすると、すごく頑張って、周りからも賞賛されるような結果を出したときに同じように「やっちゃった〜ガハハ」と打ち上げられるでしょう。その姿に、周りはあなたに嫉妬することもあなたにとり入ることも忘れてしまうでしょう。あなた自身も、卑屈にも傲慢にもなれないでしょう。正しい「打ち上げ」が何か、おわかりいただけましたか?

品種改良による、小麦アレルギー

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お世話になっているパン屋さんが入れてくださった、古代小麦についてのリーフレットの内容が素晴らしかったので、かいつまんで以下に皆さんとシェアします。

小麦栽培は、1万2千年前から始まっていたようです。チグリス・ユーフラテス川付近では、石器時代の遺跡からアインコーン小麦粒、古代ローマ時代にはスベルト小麦をお粥にして食べたことが、わかっているそうです。

今「古代小麦」と呼ばれる品種は、当時の姿と全く同じではなく、ただ同じ遺伝性特質を保つ品種を、そう呼んでいるそうです。

小麦は、自然交配や人による交配で、1つの穂に1粒の小麦が鳴る一粒小麦から、2粒なる二粒小麦、5〜6粒なる普通小麦へと、DNAを変化させました。

古代小麦として私が食べたことがあるのは、アインコーン(一粒小麦)・カムット(二粒小麦)・スペルト(普通小麦)ですが、最後のスペルト小麦が生まれたのは、約7千年前です。ちなみに、パスタに使うデュラム小麦の親は、カムット小麦だそうです。

スペルト小麦は、アメリカなどではだいぶ前から小麦アレルギーの人が食べていたと聞いています。古代小麦の中では、手に入れやすい小麦粉です。どの古代小麦も生産性が低かったため、20世紀時点では、東欧やアルプスの山岳地など、痩せた土地での家畜の飼料用として、細々と栽培されるのみでした。

私は単に古代小麦のほうがおいしいから、古代小麦のパンをいただいていますが、上に触れたように小麦アレルギーと診断された方でも、古代小麦だと問題なく食べられる方も多々いらっしゃるようです。

小麦アレルギーは、生産性を求めての品種改良を一因とするとされ、アインコーン(一粒小麦)・カムット(二粒小麦)・スペルト(普通小麦)は、そういった品種改良がされていません。ルチンを豊富に含み。抗酸化力が高く、味わい豊かで、少量でも満足感があるため、忙しい朝をゆったりさせてくれます。

わたしの朝はほぼ古代小麦か餅米(おこわやお餅)ではじめて、時間に追われるのでなく、ひとつひとつ時を刻んでいます。まずは、休日の朝からでも、取り入れてみてはいかがでしょうか?朝をダラダラではないゆったりにする仕組みとして、機能します。

中毒とは停滞

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何かに「はまる」といい表しますよね?そんな風に、中毒性のあるものを好む方の人生は、本質的に停滞しています。中毒は言いしれぬ恐怖からの回避状態だからです。

ゲームが好きな億万長者の成功者も、アイドルにはまっている世界一の記録を出す成功者もいるじゃないかと、不思議に思うでしょうか?

単に、中毒という動きを見てください。ぐるぐる同じところで回るような、前進はしない動きだと思いませんか?

表に出るには、時間がかかることがあります。その人が隠すことにエネルギーを注いでいるなら、なおさらでしょう。

いかなる記録を達成していようと、いかに賞賛を得ていようと、たくさんのお金がその人を通過していようと、この本質がその人を裏切ることはありません。

本質的に停滞した人生は、今、あなたの人生の中で活発に動いてみえるエリアも、壊死させていきます。あなたの人生を停滞させる恐怖は、お酒を抜くように、抜いていくことができます。

死者に負担をかけない

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誰かやペットが亡くなった後も、その存在を思い出しては「だって愛しているから」とごねるのは、お門違いです。

それを繰り返しているうちに、その誰かやペットをそばで感じられるようになったりして「これが愛の力だ」と解釈するようでは、元も子もありません。

これはただ、死者に負担をかけている状態です。その誰かもペットも、あなたの思いによって引っ張られ、ちっとも安らかになれません。

愛と言う言葉になんでもかんでも込めずに、素直に寂しいと言ったらどうでしょうか? かつてその誰かやペットがあなたを助けてくれた記憶を思い出してはすがりつく姿を、その誰かやペットは嬉しく眺められるでしょうか?

喪失を嘆くことは、大変重要です。人間である以上、嘆きというニーズを満たすことを、おろそかにしてはいけません。

でもそのことと「受け入れられない」ことを「愛している」に書き換えてしまうことは、区別される必要があります。「何が不快」がわからなくなっていると、この辺も混乱し渋滞するようになります。オンライン・ワークショップのお申し込みは、今夜21時までお受けしています。

横じゃなく縦 

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新年、なにか新しいものを始めた方も、いらっしゃるでしょうか? 今から、一つだけ振り返っていただきたいのは、それが自分の中で「縦の動きだったのか、横の動きだったのか」ということです。

「誘われて、何となくやってみた」「新年だから、何か新しいことをと始めてみた」だと、横の動きです。花びらが散るように、横に広がる動きです。苺をのせていたケーキに、マンゴーものせるような足し算の発想です。構造を変えずに付加価値をつけようとするやり方は、思考停止や思考の浅薄さを表します。「人生を変えたい」と言いながら、実際には何の覚悟もしていない人は、この道をなぞるのがお好きなようです。

そうではなく、植物がそうするように、縦に動くのです。果てない空へ植物が向かうように、わたしたちは果てない人生の目的へ向かいます。植物が地中深くへ根を下ろすように、わたしたちは自分の中を整理整頓しながら、自分の本音を深く知っていくのです。

「何が不快か」がくっきり認識できていない人は、縦の動きをすると「思い込み」「深く傷ついた記憶」などが、石や隣の植物のような感じで邪魔してくると認識しては、横に広がろうとします。でも、植物と私たちが違うのは、縦に向かう動きを邪魔するものを甘んじて受け入れる必要がなく、そこを変えていける点です。

ちなみに、ずっと「何が不快か」という表し方をしているのは、「何が快か、がわかって、それ以外は不快でしょ」という発想が、みなさんにあてはまらないからです。「何が不快かがわからない」という自覚のない人は、快にも不快にもあてはまらないグレーゾーンを持っていて、快が実は不快だったり、その逆も然りと、ぐちゃぐちゃになっています。