鶯の代わりに松風。

春分に入りました。おはようございます。吉野実岐子です。

茶道で釜の湯の音を「松風」と呼びますが、同じ音が鉄瓶から立つので、お家の中で「松風」を聴いています。

京都では鉄瓶を使っていませんでしたが、代わりに1か月以上もの間、鶯の声を聴くことができました。あの美声には、ずい分気持ちをほぐしてもらい、くすっと笑わせてもらっていました。京都はいたるところに竹林があり、だから京都産の筍も名が知れていますが、名張では竹林はちょっとしかないので、鶯の代わりに松風を堪能しています。

先日、コトコト煮込む料理が多かったのは、炭を使っていたからだと知って、ハッとしたんです。残り火を大切にするために、豆でも炊こうかという発想だったのです。わざわざガスを点ける今とは、ずい分システムが違ったのです。

コトコト煮込む料理は、芯から温まりますね。先日、能登に足を運べて、気持ちが芯から温まりました。能登は大都市を中心に捉えれば「時間がゆっくり流れている」や「スローライフ」や「秘境」と位置付けられますが、そもそも大都市中心ですべてを捉える発想が、ずい分人工的でおかしいのです。

いい顔の人が多いなと思ったのです。ただ時間が息を吹き返していると「時間がゆっくり流れている」ように見えたり「スローライフ」に見えるだけなのです。経済中心の効率主義では捉えられないから、そんな変な表現になっているだけなのです。

勝手に「秘境」扱いされたり「スローライフ」呼ばわりされて、経済中心の効率主義という部分的に断ち切られた発想に、「やっぱり大都市じゃないだし」や「最先端の物はここにこない」のように引け目を感じるのは、まちがっています。大都市じゃないからこその違う「政治」があり、それが都市の仕組みでは捉えられないだけで、全てが生き生きしていました。

そんなことを思いながら、鶯の代わりに松風を堪能している春分です。