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カエルが鳴くようになってしまいました。おはようございます。吉野実岐子です。

映画『パパ、遺伝子組み換えってなぁに?』では、GMフードを避けようと日々トライする中で、わざわざ国立公園に出かけて、5歳のわが子が初めて釣った魚が、遺伝子組み換えの餌を食べた魚だったという下りがあります。これは、多くの方にとって、世界の状況を理解しやすい縮図になっているでしょう。

この映画が、事実として露呈してくれているのは、否認の構造でもあります。色々な立場の人が「健康や環境への影響がわからない」と「わからない」を連発するのです。「わからない」を連発して煙に覆われている間に、GMフードはどんどん量産されていきます。理論的に考えて「わからない」に同意しているようで、実は自分で自分を煙に巻いていっているのです。

「わからない」から、と横において他を考える発想は、あらゆるところで見られるでしょう。でもそこにまた、戻ってきているでしょうか?さらに、他人の言う「わからない」に、同意する必要がなぜあるのでしょうか?

小学生の時、テストで「わからない」問題は飛ばして、後でやればいいと言われました。その場合は、テストで点を取るという目的があるから、なるべく早くそこに戻ろうとするし、実際にやるし、わからないと悔しくで、わかろうと日々努力するものです。

でも、そもそもGMの影響を、わたしたちは「わかろう」としているでしょうか?GMだけではありません。あらゆることを「わかろう」と、「わからない」ところに、なるべく早く戻って考え抜こうとすらしていないのではないでしょうか?

映画『パパ、遺伝子組み換えってなぁに?』では、「GMフードを避けるには、食習慣を変えないといけない。心の整理が必要だ。」といった下りもあります。「わからない」に同意し、自らを煙に巻く自らの心の整理が、わたしたちには思いっきり必要です。つまり、見失った目的を設定し、自律していくことが、人間全体の課題です。