真実を生きる(三)

お世話になっていたアイロンが、バッキバッキいいながら寿命を迎えました…。おはようございます。吉野実岐子です。

昨日は、真実を生きることに惹かれながら、内心では欲に添いたいと思っていると「真実を生きるには、見たくないことを見ないといけない」という、架空の怪物くんをつくりだす話をかきました。

ここには、幼時の混乱が潜む場合があります。小さいとき、見たことを受け入れがたく感じた経験があって、だからこそ、見ることにそんな風にもんどりうつのです。「真実を生きるには、見たくないことを見ないといけないけれど、見なければ自分はそれを認めたことにはならないから、だいじょうぶ」と、常軌を逸した正当化が必要になるくらい、当時としては衝撃の経験です。ここは癒しポイントです。もっとも「3Dに見せちゃうメガネ」を外せば、怪物くんも消え、映像にびびって避けようとして、あっちこっちにできた痣も消えるし、そのメガネさえかけなければ、そもそも痣をつくれないのです。

そして、欲に添いたいと思っていると、真実を生きる自分のイメージの良さに「よく見られたい」という欲が満たされます。だから「真実を生きたい」と口ではいいながら、なんにも行動が繰り出されなかったりします。行動が繰り出されたら、本当に現実が変わってしまうから、困りますもんね。欲を満たすという目的から外れてしまったら、うまく隠したその目的を果たせなくなります。

よくよくご自身の内を整理されることです。そして、ご自身の整理整頓に役立つオンラインWS「あんぜん3部作」は、開催リクエストも含めて、今夜21時にすべてのお申し込みをしめきります。

真実を生きる(二)

歩きながら、下肢からは遠い筋肉郡を感じられる瞬間が、うれしいです。おはようございます。吉野実岐子です。

昨日の続きです。真実を生きることに惹かれながら、内心では欲に添いたいと思っていると「真実を生きるには、見たくないことを見ないといけない」という、架空の障害物をつくりだします。これ、結構多くの人が、好んでつくりだす怪物くんです(笑)。

そもそも「見たい」「見たくない」とジャッジすることが、真実から遠いのです。「見たくない」といった心の動きによって、視野の広がりや深みを変えないことが、真実を生きる姿勢だとも表せるからです。

真実は事実とは違います。事実は第三者も確認できます。一方、真実は感じていくものなので、正確に感じていくトレーニングなしでは、思い込みとの判別はできないでしょう。

あくまでもイメージでいうなら、真実に向かう車の中で、車窓からの風景として色々な事実が見えます。真実と事実はそんな関係性です。そして、あくまでも真実は感じるものです。良かったら、何度も読み返してくださいね。

さらに明日に続きます。

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オンラインWS「あんぜん3部作」お申込み (~201711/30)
https://ws.formzu.net/fgen/S86985973/

真実を生きる(一)

オンラインWS「あんぜん3部作」に通しで参加されたみなさん、「あんぜんブレンド」発送しました。おはようございます。吉野実岐子です。ちなみに、「あんぜん3部作」の年内の開催リクエストも、あさって11月30日夜9時まで受付中です。

さて、真実を生きるとは、どういうことでしょうか?

特に、英語圏やその翻訳ものに影響を受けた世界観では、「自分の真実」という個人に帰属するものがあると位置づけがちです。真実という言葉に”The”なんてつけようものなら「そういう発想が宗教戦争を生む」と、爆破でもするように怒る人もいます。しかしこれは、そもそも真実が何かわかっていないから、そんなところでひっかかるだけです。

なぜなら、真実は信念を超えたところにあるからです。(宗教は信念体系に属すと表せます)まず、このことを多くの方が理解する必要があるでしょう。

次に、真実を生きることは、真正さ(Authenticity)を生きることとは、違います。真正さ(Authenticity)は個人に帰属させる形で、話の出来る概念です。だから「正直に生きて、自分の真実を大事に、どうのこうの~」というのは、つまり何かわからない言葉を使って、堂々と話をしちゃっているんです、そんな位置にいる人間がわたしなんです、と露呈しているようなものです。

明日に続きます。

清さ。

12月14日(木)11:00 -13:00 開催のWS「あんぜん3部作 第3部:生まれてしまった」(オンライン)の追加募集は、あと一名様でしめ切らせて頂きます。おはようございます。吉野実岐子です。

「いい地球環境をのこしたい」「世界を平和にしたい」といった願いは、多くの人が持っています。でも、それが本当の願いであるか、確認する必要はあるでしょう。なぜなら、ほとんどの方が、自分のエゴを満たすために、こうした願いを利用しているからです。

見極めになる一つが、清さへの理解です。真に「いい地球環境をのこしたい」「世界を平和にしたい」といった願いを持っているなら、必ず清さへの理解がひらけていきます。

そこで「でもなんかこわい」と、勝手に自分の中の整理整頓されていない思いを、イメージ化して清さへ反映する方も多くいらっしゃいますが、それはそういうことです。

つまり、清さをコンセプトとして捉え、あぁだこうだいう方は、まずそれだけ自分の中の整理整頓が成されていない状態にあることを自覚し、そちらの方に手をつけましょう。

清さをコンセプトとして捉えている内は、あなたの中にある「いい地球環境をのこしたい」「世界を平和にしたい」は、あなたのエゴを満たすのに都合がいい、セルフイメージです。まだ、あなたのことも上げてくれる願いにはなっていないのです。

あなたを濁らせるワードローブ。

12月14日(木)11:00 -13:00 開催のオンラインWS 「あんぜん3部作 第3部:生まれてしまった」の追加募集をしています。おはようございます。吉野実岐子です。

クローゼットを片付けても、片づけても、なんだか物の定位置がうまく決まらずに、散らかってしまうなら、あなたのワードローブには、あなたを濁らせるアイテムが含まれています。

あなたを濁らせるアイテムは、実は「無難で」「なんにでも合う」「オンとオフどちらでもいける」そんなキーワードをクリアしています。例えば、ジーンズです。それ以外でも、わざわざ手入れしてきたいと思うほどじゃないけれど、洗濯が楽だからと着る頻度が高くなっている服なども、該当します。

そういうアイテムがあると、ほんとうの洗練されたファッションにはたどりつきません。「自分では嫌いだけど、目立たなくてすむから」「自分らしくはないけれど、あたたかいから」「好きな色じゃないけれど、何にでも合わせやすいから」そんな理由から存在する服は、あなたを美しく見せたり、あなたが自分を誇りに思うことを助ける服を、濁らせます。つまり、あなた自身を濁らせていくのです。そういうワードローブが含まれていると、クローゼットは何回片づけても、乱れるのです。

例えば、あと半年で死ぬことが決まっているなら、もう着たくないアイテムはどれでしょうか?そこから探していくと、「お助けワードローブ」に見えて、実はあなたを濁らせていたアイテムが、クリアになりやすいでしょう。やってみてくださいね!

面倒くさいが続くのは?

しばらくチェックしない内に、畳のヨガマットなんて出ていました。おはようございます。吉野実岐子です。

「あぁ面倒くさい」が断ち切れないなら、慢性的に視野が狭くなっています。「おっくうだな」「だらだらしたい」という時も、同じです。

みなさんは気持ちに注目するのがお好きなようですが、体調が悪いと視野は狭くなるのです。

広い視野で高い視座で生きていきたいなら、やはり体調を整えることからです。

鍼や漢方に頼っている内は健康だと思い込んでいる方もいらっしゃるようです。しかし、東洋医学であれ西洋医学であれ、それに頼る必要がある時点で、もう十二分に体調不良です。

昨今は、咳をしても手を当てることすらできない大人が増えています。「熱があるくらいなら大丈夫」と子供をよその子と遊ばせ、迷惑をかけても平気な大人も増えてきました。

「あぁ面倒くさい」「おっくうだな」「だらだらしたい」が出てきたら、「自覚できないだけで、体調が悪いんだな」という認識を持つことから、始めてみませんか?

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● 追加募集 – 11月30日 夜9時まで ●

⇒ 12月14日(木)11:00 -13:00
オンラインWS 「あんぜん3部作 第3部:生まれてしまった」
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Time Has Passed

When I was in my twenties, I didn’t like the works of Kenji Mizoguchi, a famous film director loved by film directors in Nouvelle Vague like Jean-Luc Godard. I only watched the first three minutes of one of his films and it felt cold and detached.

Just as I felt, his works are often described as coldly objective realism. And he always forcusd on marginalized women like prostitutes. When I was a university student, I needed some courage to watch his movies, and they never brought me joy. But now my capacity to watch them has increased.

Time has passed. This autumn, long rainy days pushed me to watch the works of Mizoguchi. I saw some of them. First I felt a purity and some kind of force which kept standing under suffering and heartbreak. And now I am drawn to them. It is not the same as wamth. But I already knew that sometimes we need somethiing different from heart-warming.

Time has passed. My capacity to watch suffering and heartbreak has become bigger than when I was in my twenties. I know we need something more than heart-warming to expand in my work and life. That is why his works touched my heart.

AIが代われない仕事?

紅茶には、レモンや柚子よりへべす(宮崎原産)が一番だと思います。おはようございます。吉野実岐子です。

数年前、日本においては、人が従事する仕事の49パーセントが、今後20年の内にAIにとって代わることが可能と、オックスフォード大と野村総研の共同研究結果が発表されました。

「AIにとって代わられないように」なんて、自社の強みを洗い出そうと躍起になっている経営者の方もいらっしゃるようです。もちろん、普段から強みは洗い出しておきたいですね。そうできるいい機会だったとはいえるでしょう。

でも、本当にAIにとって代わられないためには、再三申し上げているように、五感を含む身体の感覚をひらいていくことです。それはソムリエのような舌を持とうとか、名工と言われる刀鍛冶が知る鉄を打つタイミングをマスターしようとか、そういうことではないのです。

そうやって、頭でこねくり回すスタイルをやめないのなら、それこそAIにとって代わられやすくなります。そんな偏った身体の使い方では、偏った未来しか描けなくて当然です。

バランスよく頭脳を含む身体全体を使い始められるようになれば、すなわちあなたが人間に戻り、高い人間性を追求する生き方を始めれば「AIにとって代わられないためには?」という問題設定の可笑しさに、うふふと笑いが込み上げてくるでしょう。

Unintentional Small Steps Bring Us Something Good

This summer I made Japanese plum syrup which helps us deal with hot and humid summers because of its sweet and sour taste. Afterwards, six Japanese plums were left over. I searched for the easiest way to use those green Japanese plums. We cannot eat them raw because they are poisonous. And the easiest way to cook them was putting them in a enamel pot which can withstand acid and pickle them with miso paste. After that we just need to wait for a few months.

I drank all of the Japanese plum syrup during summer time, but the time to eat the plum miso had come. They were a totally new taste for me. And for sour food lovers like me, it was absolutely delicious and widened the range of my cooking. This was like a gift from the past.

The beginning was just preserving them with a minimum effort. But it created small steps like making Japanese plum miso, And it took under a minute. But it brought a lot of joy and opened up a new world unintentionally and unexpectedly.

In our life, sometimes something is extra. But if we try to preserve it, it will be the start of something good.

子供をまもる。

オンラインワークショップ「あんぜん3部作第3部:生まれてしまった」のお申し込みは、とうとう今夜21時までとなりました。たくさんのお申し込みをお待ちしています!おはようございます。吉野実岐子です。

昨日の補足ですが、社会階級の違いが、メチル化のパターンの特徴と、明確に結びついていたという研究報告もあります。赤ちゃんがお腹にいる間、母親がいた環境の過酷さが、メチル化のパターンを変えることも判っています。胎教の話などと、結びついてくるでしょうか。お母さんが安全を感じられる環境で過ごしながら、出産にのぞむ大切さは、昔から繰り返し言われてきましたよね。

さて、ミネソタ大学が、2000年頃まで約30年にわたり、180人の子供とその家族を追い続けた研究によれば、母親の性格・誕生時の子供の神経学的な異常・子供のIQなどは、少年期に入った子供が、深刻な問題行動を見せるかどうかを予想するファクターにはなりませんでした。予想するファクターとなり得たのは「親が子供に対してどう感じ(例:うちの子は弱い)、その子とどう接したか(例:生活のあれこれを予定通り済ませることが先といった、柔軟性のない態度)」でした。(養育者の柔軟性のなさは、子供の緊張を生んでいきます)

さらに、エミー・ワーナーの研究(698人の子を40年追い続けた)によれば、大人になってからのレジリエンス(逆境から柔軟に回復していける力)は「子供が2歳の時に、母親がその子をどれだけ愛らしいと評価するか」で予想できると考えられています。子供にとって保護因子となる、どの子にとっても叶えてあげられる可能性があることは、地域の団体などコミュニティーへ積極的に参加すること/親以外の養育者(先生、保育士、おじやおば等)との強い絆があること、でした。

みなさんがどんな立場にあっても、大人として今からできることが、見えてきたのではないかと思います。子供が健全なら、老人もまた健全になっていくのです。

「いっしょにいて安全だ」と思われる大人になろう。

なんだか急に真冬に入ったようですね…。おはようございます。吉野実岐子です。

もしもあなたが、特定の遺伝子を持っているから、特定の結果(疾患)が出るという単純な考えを持っているなら、それはあまりに時代遅れです。遺伝子の塩基配列情報自体に変化がなくとも、メチル化(メチル基を遺伝子の外側に付加)して、遺伝子をオンにしたりオフにしたり、身体が受け取った情報への感度を上げ下げする(例:同じストレスを受けても、ストレスホルモンの分泌を増やしたり減らしたりできる)ことができるだけでなく、このメチル化のパターン自体が、先祖代々、渡されてきているからです。

さらには、マイケル・ミーニーのラットの実験では、母ねずみが子ねずみを生後12時間以内に、たっぷり舐めて毛づくろいすると、1000以上の遺伝子の配列が改変され、そうでない子ねずみより、勇敢でストレスに強い冷静な子ねずみになることが、判っています。

せめて、特定の遺伝子を持っているかどうかではなく、どんな遺伝子をオンにする選択を重ねているのか、子供のどんな遺伝子をオンにする環境を与えているのかに、目を向けませんか?悪い例ですが、虐待を受けた子は、一説には73もの遺伝子に特別な改変が見られたという報告もあります。

いいメチル化のパターンを子孫に引き継いでいくには、簡単に言うとみなさんが「いっしょにいて安全だ」と思ってもらえる大人になることです。とても傷ついた人が、しばしば馬やイルカとふれあい、劇的に回復するのは、彼らが「いっしょにいて安全だ」という感覚を、芽生えさせることができるからだといいます。

遺伝子云々という、切り刻んだ発想は好みませんし、そんなことを言わないと物の道理が通らない世の中も十分におかしいと思います。しかし、「いっしょにいて安全だ」と思われる大人は、いい方向へ遺伝子を改変したり、いいメチル化のパターンを相手に贈れる可能性が十分あるという言い方ができます。

お子さんのいる方もいない方も、どうぞたった一回しか話さないかもしれない子供にも、そんな思いで接してみて下さい。そして、集中するのに苦労し、絶えず緊張していて、自己嫌悪に満ちている大人や、見境なくセクシュアルな関係を持ったり、記憶にずぼっと抜けたところがある大人をみたときには、その人が虐待を受けた可能性も多分にある、過酷な子供時代を送ったことに、目をうるませてください。

初めての試みである、三部作の最後のシリーズとなりました、ワークショップ「あんぜん3部作第3部:生まれてしまった」のお申し込みは、いよいよ明日21時でしめ切らせていただきます。積雪のあった地域の皆様、どうぞお足元にご注意くださいね。

ビジョンでなく、無難を目指してしまう?

名張川もすっかり水の感じが、冬のそれになりました。おはようございます。吉野実岐子です。

ビジョンを描けずに、無難であることを目指してしまう方が、かなりの数いらっしゃいます。もっと踏み込んでいうなら、無難(問題がない)でOKになるかというと、実はそこから問題探しに走ってしまうのです。無難だとやることがなくなって、それを手持ち無沙汰に感じてしまうのです。

やることがなくなって、どうしたらいいかわからなくなって、他人の問題に首を突っ込んでは、喜ばれるという報酬を得てみたり、鼻先を叩かれるような痛い思いをしながら、やっぱり途方に暮れる感覚に戻って来てしまうのです。でも、そこでビジョンを描く方へは行けないのです。

こうした方は、特に2歳以下の時期において、養育者から同調されずに育っています。親(養育者)が自分のことで手一杯で取り巻くすべてに敵対的な姿勢だったり、びくびくしながら揺れる薄のように「これでいいのかな。合っているのかな」と親になっていて、自分の生んだ赤ちゃんに慰めてもらおうとしたりしています。

そうやって育つと、何か技能を磨くことはできても、その先が展開しづらいのです。作業効率をUPさせたり、手順の入れ替えなど、マネージメント能力はあげられるし、例えば英語を通訳レベルに上げるような、個々の高い技能は持てます。でも、ではその技能をどう使っていきたいのかというビジョンを描けずに、右往左往します。あれもこれも違う気がして、ちょっと手を出してはひっこめながら、やっぱりビジョンは描けないままで、その結果その高い技能も宝の持ち腐れとなってしまうのです。

ビジョンを描く力を取り戻していくには、たとえゆっくりでも、かいつまんででも、自分の生育歴を振り返っていく必要があります。その踏み出した、小さな一歩を思い切り信じてあげて下さい。

過干渉

冷たい雨の今日は、朝から、冬支度を進めています。おはようございます。吉野実岐子です。

子供に過干渉であると、自分の家にいても「今日は何で遊ぶの?」と聞いて、子供のいうおもちゃを並べてあげたり、子供が散らかすそばから、そこにあっても危険ではない物をどんどん片づけたりします。(もちろん、子供が運べないほど重いおもちゃ(例:滑り台、トランポリン)や、誤飲の可能性のあるシャボン玉液を片づけたりすることは、過干渉ではありません。それは適切な危機管理です。)

そうすると、子供は養護者から離れなくなります。そして、親(養育者)の方が、自分の時間を持てなくなります。即ち、尊重のない関係になっていくのです。7歳を過ぎて、それでも子供がべったりなら、親の方が実は子供の欲求になかなか反応できていなかったことを、今、たとえ苦しくても受け取って下さい。これが、明るい未来への新しい扉を開ける鍵だからです。

こうした場合、客観的に見ると、子供の方が親に合せています。そして、親は子供を自由に伸び伸びとは育てておらず、ゆえに子供は内から自律する機会を奪われています。親にとって一番大事なのが、その子の命ではなく、生活をコントロールしきることになっています。

そのため、そのつもりはなくても、実際には、親は子供にギブスをはめるように関わっています。でも、親の言うことをきけば、自分に注目してもらえるので、子供はそのギブスを受け取って行くのですが、そうすると子供はいつも緊張を孕むようになります。ギブスされて緊張するのは自然な反応ですよね?(過干渉は子供の脳を変形させることも、明らかになっています。)

こんな風に、子供に対して過干渉な人は、100%大人に対しても過干渉です。本人の中では、こまやかさや思いやりとすり替えられて、いいものとして評価されていることも多々あります。これは、その人自身の養育者(親)との関係性に端を発しています。

大人になっている親が、自らのこのテーマに取り組み、自らの中の整理整頓を早急に進めていかないと、子供はその荷物を背負わされることになります。実際、もうお子さんが「学校になかなかなじめない」「いじめられているかもしれない」など、現象として表れている方も、多いでしょう。変えていけることですから、明るい未来を生きるために、しっかり取り組んでいきましょう。

あっけらかんと潔く、苦言を呈する。

ブーゲンビリアを植えました。おはようございます。吉野実岐子です。

いいものをいいと高らかに宣言できても、わるいものはわるいと言う、すなわち苦言は呈せないなんてことは、ありませんか?

「これは誰がなんといおうとよいのだ。わたしはこの良さを確かに知ってしまったんだ」と胸を張るとき、そこには自らも肯定する誇りがあります。アイロンをパリッとかけたハンカチのように、ぴしっとした潔さがあり、そこからよごれた何かは感じづらいでしょう。これは自らのいのちをまもれる態度です。

それなのに、苦言は呈せないのは、なぜでしょう?これはいわば、心を閉じているのです。苦言を呈している内は会話も続き、人間関係も続きます。まずは、苦言を呈することが、心を開いた状態にあることを、受け取っていきませんか?

心を閉じていると、悪いものについて、くしゃくしゃに丸めた鼻紙みたいにしてしまい、自分の中でごにょごにょ言い連ねては、自分を丸め込んでしまうことになります。そうなるともう、五里霧中です。人生が複雑になるスピードも駆け足になります。

慣れ親しんだごにょごにょにさよならし、何より自分のいのちをまもるために、安全を創り出すために、あっけらかんと潔く苦言を呈していくことは、あなたの器も広げてくれます。馴れ合いという孤独と危険から、あなたを救い出してくれるでしょう。