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穀雨の単発コーチング、明後日でしめ切りです。おはようございます。吉野実岐子です。

エネルギーを感じるのではなく信じる人たちは、エネルギーを物のように捉えています。例えば、机の上にあるリンゴが転がり始めたとしても、その横にある本はそのまま在るように「この二つは(一見すると)関連がないのだ」という捉え方をしています。

しかし、実際に感じてみると、そこにはいわば目に見えない情報のネットワークがあって、情報がやり取りされて、その結果、わたしたちの目に明示的に見える現象とそうでない現象があるだけだと、判ります。

例えば、エネルギ―を物のようにとらえる、つまりエネルギー信者は、誰かが誰かにエネルギーを一方的に、ボールのようにぶつけたりできると考えています。例えば、ドッジボールを相手にバンと強くぶつければ、相手が倒れることもありますが、そうやって、ボールをコントロールして、相手を倒すことができると考えています。もっと明示的な言い方をすると、エネルギー云々によって、加害者/被害者や、支配者/被支配者という構図を生めると考えています。

ところが、誰かが誰かにエネルギーをぶつけたかのように解釈もできる動きをして、相手が倒れることがあるのは事実ですが、よく見るとそれは、自分の力で相手が自発的に倒れていたりします。そこで倒れてバランスを崩すことで、身をまもっているだけだったりします。つまり、誰かから何かの作用があったのは事実でも、そこで倒れる倒れないは、自分の力量いかんで、その力量自体は変更できるという表現の方が、ほんとうに近いでしょう。

仮に上のような経験をして恐いと思ったとして、それはそうやってバランスを崩さざるを得ない方向に向かったこと自体が、向かうべきに向かえなかった自分を切り取っていて、その瞬間のそういう動きを恐いと認識しているだけです。この場合については、自分の力量(ちょっと言葉がちがいますが、便宜的にこうしておきます)をあげていけばいいだけです。そして、何より大切なのは、感じないで信じること自体が、向かうべきに向かっていない態度であるということです。