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先月は、照明器具のスィッチひもを交換し、スッキリしました。おはようございます。吉野実岐子です。

宗教法人ならば、第三者が見ても宗教ですが、宗教法人でないものも、自分次第で宗教にしてしまえます。

代表例がお金でしょうか? お金をマスターにして生きている人たちだらけのこの世です。

面白いことに、宗教を恐れる人は考え方がとても宗教的だったりします。変えられるものと変えられないものも区別できぬまま、変えられないものを変えようとして、その辛苦はいつか報酬をもたらすと信じてしまえます。非科学的でいつも何かにすがっているのです。すがるに値するものかどうかのジャッジだけはとても厳しく、上から目線でその様は、まるで何かのマスターのようです。

自分がすがれると思ったものが、そうでなかったと知ると、そもそも自分から選んだ事実は蹴っ飛ばし、すがれるはずだったものに対して非常に手厳しくなります。

ジャッジするか、すがりつくか。宗教をおそれる人がやっていることはこの2つで、そのプロセスが科学的であることがないのです。例えば、病気で困っているとして、その病気に関する論文を徹底的に調べたりしません。しかし、同じ病気で困っている人達のコミュニティには属します。

つまり、自分では思考せず、専門家を手厳しくふるいにかけるか、同じ悩みを持つ人にすがるかで、事態はずっと膠着状態だったりします。もちろん、宗教の歴史について調べたりもしません。よって、宗教に帰依する人を尊重もできません。

ジャッジするか、すがるかという思考停止の自己中心的な位置で、随分周りに迷惑をかけているのに、自覚の余地もない様は、まさに宗教をはじめとする信念体系にどっぷりな人のそれです。

極論をいえば、古くから続き文化として各地に根付くような宗教に帰依している方のほうが、ずっと風通しがよく、あるレベルにおいてまでは、健やかであるほどです。それは限定的な意味合いでは、責任をとって生きているからです。

宗教をおそれれば、まるで胎児に戻ったかのごとく、無責任であるという利得が満たされるのは、言うまでもありません。そして、ジャッジ or すがる を繰り返す日常というのは、必ずストレス過多になります。