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自由に自然散策していた共有地が貴族のものとなったイギリスで、かつてみんなが利用してきた道は一定のルールのもと自由に散策できる権利を手にした話を読み、面白いなぁと思いました。「土地の表面はパブリックに地中は地主に属する」という発想が、それを支えたそうです。おはようございます。吉野実岐子です。

人生とは創り上げるものだという意識を、みなさんしっかりお持ちでしょうか?自律していない、すなわち他律の状態にあると、そういう意識を持てないでしょう。結果、より一層流されて、被害者に甘んじたり、敵の多い人生を送ることになります。

不運に見えても、自律していると不運に破壊されるのでなく、不運もその一部として、人生を主体的に創り上げていくことができます。それを見せてくれるのが、タブーの対話二回目で使う『ヒロシマ・ナガサキ 二重被爆』 (朝日文庫) の著者、山口彊さんです。「ファイティング、戦うとは、人を殺めることや人に勝つことを指すのではない。困難なことがあってもなお自らを奮い立たせて生きる(ことだ)」(同著、pp268-269)の一文に、この方がどんな方かをしめすすべてが凝縮されていると言えるのかもしれません。

実際、自律されていたし、そうしようとなさってきた姿は248ページに、如実に表れています。

どういう状況であっても、人は自分から離れることができない。だから私は自分が自分であるよう努めてきた。その結果、この年まで生きて来れた。

生きている限り、人生は続く。私にとって広島と長崎の被爆は、それ以前と以後の人生を断絶するほどの出来事だったが、同時に私の人生の上での通過点でしかなかった。

痛みはある。辛い記憶はある。しかし、それも通過点でしかない。惨劇は忘れられないが、人は過去に生きるわけにはいかない。人はいまにしか生きられないからだ。

あえて忘れるでもなく、しがみつくのでもなく、ただ、いまを必死に生きてきたら、それを指して人は「生命力」があるというのだ。

この本ではもちろん「太陽が地上に落ちた。街は悲鳴をあげ、身もだえするように燃えていた。炎は空を焦がし、熱風があたりをひと薙ぎするごとに草も木も、人間も、燃えた。凄まじい光景を前に息を呑んだ。再び息を継ぐと、炎の塊のよな大気の熱さに喉は痺れた。」(同著、p19)や「私は見た。人が筏となって川を流れるところを。私は知った。骸の脂の滲みた土は乾かないことを。」(同著、p25)のように、広島や長崎に原爆が落ちた当日のことも、明らかにされています。

でも「ことさら我が身の不幸を嘆くのでもなく、ただ起きた事実を後世にかたりたいと思う」(同著、p5)という方針の通り描かれていく、できうる限りのありのままは「人は自分の中で決着すべき葛藤を、他人への支配や富の独占といった違う欲望に置き換え、自分自身の心を見つめることを怠っていることが多いのだと思う」(同著、pp4-5)を、みなさんにどんどん鮮やかに炙り出してくれて、それはみなさんを圧巻で爽快な心持ちにさせてくれるのではないかと思います。

ぜひ、手に取って、読み終えられなくとも、タブーの対話に顔を出していただきたいと思っています。