Unmarried or Married Is Part of Diversity.

In Japan, many companies are passionate about promoting diversity. But in fact, they don’t understand what diversity is. So they just pay lip service to diversity, like saying they want to increase the number of women executives.

For example, diversity includes being unmarried or married. It is one of the aspects of diversity. In Japan, people who ask if someone is unmarried or married, basically believe that being unmarried means being unhappy and being married means being happy. So in general, when people ask someone if they are unmarried or married, they imply that you are unhappy if you are single and you are hiding some problem which prevents you from marriage. Of course, some people ask simply out of curiosity. But amazingly, many people have this prejudice.

Unfortunately, it is crystal clear that there are few people who understand and live in diversity. And actually, we can see the same thing in other countries, not only in Japan. Before proclaiming your support for diversity, let’s make an effort to understand and live in diversity in your private life. So it is easier to bring it into your work.

自分を認めるとは?

「自信がないなぁ」「自分は大丈夫って思えない」方は、自分を認めることができていないと言う認識はあるでしょう。

では、自分を認めるとは何をし、何はしないことでしょうか?

「自信がないなぁ」「自分は大丈夫って思えない」方がしているのは、自分に要望することです。それも、とても叶えられないような非現実的な要望をしています。

目標を立てることは、自分に要望する側面を持ちますが、上述した理由ゆえ「自信がないなぁ」「自分は大丈夫って思えない」方は、いつも不適切な目標を立てることになります。だから、いつも叶わなくて目的を達成できなくて、より自信がなくなって「やっぱり自分は大丈夫じゃなかった」と思う羽目になるのです。

そうではなくて、自分を認めるとは、自分の要望に応えることです。上述したような、自分に対して要望する態度の逆をいきます。

「その目的を叶えるために、もっと快適なプロセスを歩みたいなぁ」「その目標が高すぎて、10段飛ばしで階段を降りて来いと言われているような感じだから、そもそも不可能だよ。2段飛ばしまでならできるよ」こうした自分の要望に応えていくのです。

最も、自分の要望が何かもわからないケースが多いかもしれません。そういう方は気持ちよさ(comfortable)を大事にしてみましょう。そうすると、自分からの要望が聞こえるようになってきます。

逃げ場がないと、絆創膏をはる。

逃げ場がないと、わたしたちはパンクしなくてもよかったときに、あっさりパンクします。明日も会えたはずの人と、昨日が最後だったとなります。

都市部では特に、私立に通う子供が、激混みの通勤列車を経験します。痴漢が犯罪だという認識のない時代でも、あの時は「ちかん!」と叫んだり、犯人をつかまえ警察までいき学校に遅刻して、自分でも自分を「勇壮だ」と認識していたかもしれません。

沖縄など戦後が遅く訪れた地域は、治安が悪い時期が長く、知られていないだけで、かなりの性犯罪が多発していました。真昼間から露出狂にあうなど、何度もこわい思いをしているうちに、むしろ呆れてしまったかもしれません。ばかばかしいくらいに思い、自分は「淡々としているのだ」と少し離れたところから、自分をみる感覚だったかもしれません。

しかし、こうした「勇壮だ」「淡々としているのだ」といった自己認識は、実は絆創膏です。こうした絆創膏は、心身が健康な方であっても、30代後半から剥がれ始めます。

つまり「実はあのとき、こわかった。すごくこわかった」と、あの時絆創膏の下に留めた恐怖が湧き上がってくるのです。なぜそれをあのとき言えなかったかというと「言ってもとにかくわたしが悪いといわれたから、言わなくなった」「いつもお父さんは大変そうで暗い表情だったから、言えなかった」と、自分に逃げ場がなかったことを、何十年もたってから、知るのです。

同時に、逃げ場をくれた近所のおばちゃんや担任の先生や叔父や叔母のことを、ありありと思い出し始めるでしょう。

逃げ場は、いのちをつなぎます。いつもなにか逃げ場を用意しておかないと不安なら、逃げ場のない時間をあなたが随分長く生きてきて、でも逃げ場ゼロではなかったからこそ、逃げ場を用意しようと発想できるのではないでしょうか?

情報密度が不均衡。

知床で混乱したのは、クマ出没地域で手作りのクマよけ鈴が売られていたり、クマの足跡が見つかった場所の近くに住む人が「クマに出会ったらどうふるまうべきか」知らない一方、資料の集まる場所では、クマとの遭遇回避や遭遇時の対応について6枚にもわたる資料があったりと、情報の濃さが、てんでバラバラだったことでした。車で15分以内の距離で、これだけ情報密度が不均衡だったのです。

そして、もちろんこうした情報格差は、日常でもよくあることで、安全面という視点から、わたしたちの住むそれぞれの地域の課題なのだと思います。そんな情報の濃度がめちゃくちゃな中に身を置いたうえで、クマについてみなさんに覚えておいてほしいのは、以下二つです。まず、クマにあったら、大声を出したりせず、ゆっくり後退しましょう。次に、やっぱりクマスプレーはレンタルしましょう。

知床だけでなく、北海道だけでなく、日本全国いたるところで、悪化した地球環境に苦しみあがいているクマ達が、人の住むエリアに出没せざるを得なくなっています。ゴミや食べ物を放置すれば、彼らから尊厳を奪うだけでなく、人間を攻撃するようになります。<a href=”https://globalflowering.com/personal_coaching_ja.html”>「共生」なんていう、人間を中心においたままの自己中な言葉は、もう使う必要がない状態に、戻す必要があります。もう、待ったなしです。

クマスプレー

またヒグマの話をしますが、とにかく「出会わないようにすること」が最善の安全策と言われています。ガイドさんは、本当に恐怖で顔をひきつらせながら、喉をからして「ホッーホー」としょっちゅう叫んでくれていました。が、それでもエゾジカやキタキツネ並みにそこらへんにいる人間という生き物を、特に散策コースのヒグマたちは怖がらなくなっていて、遭遇率は高く、ガイドさんもクマスプレーを持参していました。

クマスプレーの中身はカプサイシンです。1000円台でレンタルできて、9メートル以内にクマがいるときに粘膜の多い顔を狙って噴射することになっています。

しかし、これを知ったとき、まず9メートルがどのくらいかパッと分からない自分に、唖然としました。9メートルは、小さい子が親から離れても、このくらいの距離ならと思えるくらいの近さでした。さらに、もしもっと小さくクマが見える、つまり9メートル以上離れたところにクマをみて噴射すると、逆に興奮させて襲われる危険性を生んでしまうことにも、ヒヤッしました。一番は、噴射の瞬間、風向きを見ないといけないということです。クマに向かって風が吹いていれば噴射OKですが、もし、自分に向かって風が吹いていると、自分にこのカプサイシンスプレーがかかってしまいます。当たり前ですが、人間の粘膜だってカプサイシンスプレーによって猛烈にやられてしまうので、人間の方が全く動けなくなってしまうのです。逆効果もいいところ、オーマイガー!って感じですよね!

クマスプレーは、知床の場合、知床自然センターや羅臼ビジターセンターなどで、借りれますが、空のスプレー缶を渡してくれて、いざというとき用の予行練習をさせてもらえます。これがありがたかったです。

クマよけ鈴は、アウトドアショップなどにも売っています。しかし、ガイドさんを含め、実際に山に日常的に入っている人は、使っていませんでした。というのは、このクマよけの鈴、音がかなり大きくて、だいぶ離れたところを歩いている人の鈴の音ですら、ハッキリと聞こえるほどなんです。つまり、ごく僅かな音を聞き逃してしまうのです。一瞬のガサゴソが零れ落ちてしまうのです。

本州では「ツキノワグマに出会ったけど、鼻にパンチしたら逃げていった」と、まるで武勇伝のようなニュース、も流れます。が、人は強い恐怖を感じると「そうだったらいいのに」という空想を作り出し、現実に起きたこととすり替えることがあります。つまり、こうした変な武勇伝の多くは疑わしいのです。またそもそもそれ以前に、ヒグマであれツキノワグマであれ「子熊だ!かわいいな!」などと、じっと見ないことです。もし、知らない不思議な風貌の人があなたの子供をじーっとみていたら「変質者だ」などと思うのではないでしょうか?いわば、クマからしたら、子熊を見つめる人間は、変質者以上の存在だと思った方がいいでしょう。

自分たちより穢れている(ことがほとんどの)人間から見つめられるということは、動物の心身にとって、大変なストレスになります。望遠での撮影ですら、人間と動物の距離は変わり、それは相手の尊厳を奪うことにつながります。それが「決定的にやってはいけない侵略」であると、ご理解いただけましたら、幸いです。どうか、ちらっと見えても、そっとして動物たちそれぞれの無事や幸せを祈りつつ、すっと去れる大人であってください。

真実とジャッジは別。

真実と、自分がジャッジして「これは正しい」と思う事は、全く違う次元に存在します。存在する文脈の広がりも深さも、全く異なります。

しかし、真実にたどり着いていない人は、この2つを面白い位に混同します。そして、怒ったりしていますが、その鈍さとアンバランスの責任は、ご自身に属しているから、ご自身を変えられるとよいでしょう。

真実(truth)と本当の事実(true fact)は、また全く違う広さと深さの文脈に属しますが、この2つを混同する方も非常に多いです。例えば、ジャーナリストが報道すべきなのは後者です。

真実に辿り着きたいなら、ジャッジを超えて、もちろん本当の事実を押さえる力を持ちながら、さらに限界はある科学を使いこなしつつ、創造的なプロセスを歩んでいける高い人間性が必要です。それを一部言い換えるなら、繊細な心身を育み、それらを適切に生かす方法を身に付けるとも言えます。

頭の中でこちょこちょ動かしたり、ハートをオープンにするだけで、真実を感じられるといったことは、ありません。部分の操作で感じとろうとすることが、既におかしいですよね?

小さい時の「真実」なんて言うものはなく、単にジャッジを超えたら見えてくる「本当の事実」があるだけです。真実は個人に属するものではなく、信念体系に属するものでもありません。

例えば、ここまで読んで「真実は絶対なんだ」と思った方は、信念体系にとらわれています。「真実はひとつなのか」といった問いも、つまり真実を理解していないことをよく表しています。理解してないことに問いを立てても、広がったり深まるわけがないですよね?

「あれ、真実が何かちっともわかっていなかったな」と思っていただけたら、まずは自己認識が少し修正されて、真実を生きる道に少し近づいたと言えるでしょう。

付き合う相手がいつも不安定なら。

「付き合う相手がいつも不安定」という方がいらっしゃいます。そこから「相手をよく見極めるようにしないと」「でも逃したくないし」と、嵐の中にいるかのようになってしまうようです。そこに答えがあります。

つまり、相手をよく見極めることが必要なのではありません。上述したように不安定なあなただから、不安定な相手だけひきつけます。健全な人は、不安定であるという不健全さを魅力と混同しません。

必要なのは、あなたが自分を変えることです。あなたが自分を健全にし、安定するようにしていけば、あなたに健全な人が惹かれていく循環が生まれます。それまでは、どんなに相手を見極めても、結婚した後に「やっぱり見極めきれていなかった。でも世間体が悪いし。さらに新しく自分を好きになる人なんていないかも」と、余計に嵐になるだけです。

相手が異性でも子供でも、とにかく見極めようとする必要を感じるなら、それはあなた自身が大きく変わらなくてはいけないこと表しているだけです。「相手が不安定だから」「相手が驚くようなことをするから」ではなく、自分を深いところから変容させる必要があることから逃れている自分を、しっかり認識するときです。しあわせは、あくまでもこのステップの先にひらけます。

妄想じゃ、前には進めない。

思考しているつもりで、妄想している方が、この数年でだいぶ増えた印象があります。思考と妄想の違いは簡単です。思考すれば実際に現実が動きますので、前進したと第三者からも見てとれます。妄想は一時停止のため「考えるんだけど行動に移せない」といった、自分でも認識できる停滞感が生まれます。

今を生きていれば、必ず前に進んでいくわけですが、刹那的であるだけの場合、思考停止で手足が動いているので、やっぱり現実は変化しません。憎しみや恨みつらみを抱えて、それらを起爆剤にしている場合も、ある時点を超えると、一切前に進めなくなります。

「憧れるんだけどね」は妄想で、「憧れるから近づこう」と思考した人は、憧れの裏にあるきつい現実や激しい練習などもするんとこなしていきます。妄想ピープルは、広告代理店にとって、思いっきりターゲットになります。こんなに動かしやすい足の浮いた連中は、責めてくることもないから、狙うには絶好だからです。そうして、今の高度に狂った人間社会と、激しく汚れた地球環境が、でーんと私たちの前に広がっているわけです。

妄想してバランスを崩すと、ご本人も苦しいだけでなく(無自覚な場合もありますが)、周りも大変な迷惑をこうむります(似た者同士しかいないと、無自覚でしょう)。発する匂いなども、すべて変わっていくからです。無自覚なままだと、人生100年時代なんて、思えちゃうんでしょうね。

眼科で「70代はまだ中年!」と言っている人に、驚きました。これだけ地球環境が悪く、人間社会も荒れているのだから、病院で管につながれたまま、高いお金を払い続けて100歳まで生きることは可能でも、老衰で100歳で死ぬのは非常に難しい時代に入ったことは、言うまでもありませんね。

「こわい」があなたを尊厳の世界に戻す。

ある時期から、日本では「かわいい」がかなり多義的な語彙になりました。かわいいといっても、prettyやcuteだけでなく、lovelyやaccptableやadorableを含み、人によっては「不快ではない」くらいの意味で使う方もいらっしゃいます。

それと同時に「受け入れる」ブームになりました。「子供を受け入れる」とか「まずはよく聞いて受け入れてから」といったブームに興じた人の多くが、叱れない大人や意見を生成できない大人へと、自らを歪めていきました。

雑に言うと「かわいい」は、いまや「価値」の世界に住む言葉なのです。「価値」の世界に住むのは、物であっていのちではありません。そして、まちがって「価値」の世界へおいやられ、みにくいアヒルの子となったいのちを、本来あるべき「尊厳」の世界に呼び戻すには「こわい」が大事なのです。

「かわいい」は、自分がコントロールできるというニュアンスを含みます。自分の手におえなかったり振り回されるものには、その瞬間「かわいい」という言葉を紡ぐ人は、なかなかいらっしゃらないでしょう。一方で、「こわい」は、自分がコントロールできないというニュアンスを含みます。従順だったり、予測通りに動くものに、その瞬間「こわい」という言葉を当てはめる人は、なかなかいらっしゃらないでしょう。

「かわいい」にどっぷりな人は「こわい」を克服対象としてみます。いうなれば、そういう人自身がもう、価値の世界の住人になって、だいぶ経つのです。しかし、そういう人自身ごと、属すべき尊厳の世界に戻って行くには「こわい」を、こわいままにしておける勇気が必要です。

出会ってすぐ、自分と違う相手に「こわい」と思って、それを握りつぶすように共通点を見つけようとするなら、あなたは「価値」」の世界の主です。しかし「こわい」を抱えたまま、適切な距離をたもち、礼節を重んじながら、気持ちよい関係を築いていけるとき「こわい」は、排斥や排除の源にはなりません。

どうぞ、ご自分のお子さんにも「かわいい」だけでなく「こわい」を持ちながら、互いに尊厳の世界に属し続けられるよう、高い人間性を育んでください。ちなみに、こういうことを「スタミナが必要だから、酷暑下ではラム肉(身体を温めるので、冬に頂くもの)を食べよう」といった理にかなわないことを平然と広めるファッション誌の編集者などに伝えるにはどうしたら良いのかを考えると、泣けてきます。みなさん、どうしたら伝わると思いますか?

思考しないで済む状態が、安全なの?

例えば、ユニバーサルデザインは、誰もが感覚的に使えるデザイン、バリアフリーは、誰もが怪我したりつまずいたりしないデザインとして設計されていると捉えても、言い過ぎではないでしょう。そして、それは自然界ではありえないことです。

つまり、誰もが怪我したりつまずいたりしないし、感覚的にパッと使える状態は、実はわたしたちから力を奪っていないでしょうか?本能を鈍らせていないでしょうか?

ユニバーサルデザインやバリアフリーがあふれる場所で過ごすお年寄りより、20代でもひるむような悪条件の田畑を毎日耕すお年寄りの方が、ずっと健康なのはなぜでしょうか?「一緒に暮らそう」と懇願する、バリアフリーやユニバーサルデザインでいっぱいの場所に慣れた40代や50代より、20代もひるむ自然の中で暮らすお年寄りの方が、若々しい笑顔でちゃきちゃきしゃべるのは、なぜでしょうか?より安全だと、より力を発揮できたり、素敵な笑顔になるわけではないのは、なぜでしょうか?

それは、安全の中身が「考えなくて済む」になっているからではないでしょうか?

「人間が怖い」とクマに教える?

「人間が怖い」とクマに教えるよりも、人間が「クマが怖い」「鹿が怖い」「狐が怖い」と学んでいく必要があるのではないでしょうか?「こわくないよ。大丈夫。こんな習性があるからこうしたんだよ。知識があれば怖くないでしょ?」というのは、共存から最も遠い態度です。

共存とは「怖いから近づかない」ことです。そして「怖いから」とむやみには殺さないことです。保護のために生態を知るべく捕獲するというのは、共存の態度ではないのです。畏怖の念を持ち、きちんと距離をとり、先にクマや鹿や狐の領域に侵入した私たちが、ちゃんと後退し、身を引くことからだけ、共存は始まります。クマだって、人間だけでなく他の動物を「こわい」からと、むやみに殺したりしません。そもそも、北海道のヒグマなどは、ベジタリアンとして生きていけるよう進化したことがわかっています。動物を食べるときには、基本的には死骸を食べています。余談ですが、羅臼のあたりでは、打ち上げられたクジラに20匹ほどのクマが群がることがあるそうで、クジラはヒグマの一番の好物だと聞きました。

「怖い」という気持ちを取り戻さないと、もっと地球はバラバラになってだめになるとは思いませんか?

「苦しいよ」「つらいよ」を言えてる?

なかなか「苦しいよ」「つらいよ」と表せない方がいらっしゃいます。だって、生きてきたほとんどの時間が地獄だったからです。

いつも苦しくて、いつも辛くて、いつもキツければ、「苦しいよ」「つらいよ」「きついよ」などと表しでもしたら、もう崩れてしまうからです。これ以上苦しいとき、つらいとき、きついときに、一体何と表せばいいのでしょうか?その切札を今失っていいのでしょうか?そんな風に言わずにいることで、やっと自分を保ってきたのです。

そういう方は、不意に自分の中に「死にたい」と言う声が上がってくることがあると思います。本当に実行する気もなければ、きちんと理性が働いているのに、何度も上がってくる「死にたい」と言う声は、ちゃんと両手ですくってあげるべき声です。

あなたの過去の壮絶さが、そこに集約されているからです。わたしには「深く傷つき、もう殺されかけている。殺される前に、死にたい。尊厳をまもりたい。いのちであり続けたい」という叫びに、聞こえてきます。

それなら、あなたを含むすべてのいのちの尊厳がまもられる世界を、一緒に創出しませんか?実はあなたは、無いものを創り出せる大人に、もう成長しているのです。

否定された?(二)

本当に恐ろしいのは「札幌に行きたいのに、福岡行チケットを手にしているよ。行きたい方と違うほうへ向かう道を選んでいるんだね。すごくいいね!」と言ってくれる人と、結婚までしてしまったり、人生の重大な決断の際にそうした人に頼る人が、ムチャクチャ多いことです。つまり、あなたもその一人の可能性があるということです。

そして、一生懸命「ねぇ、札幌に行きたかったんでしょ?本当はどこに行きたいの?やっぱり札幌なの?それなら、チケット取り直さないと到達できないよ」と、伝えてくれる人を無下にする様は、いわば「鬼」を信仰し、「神様」を「鬼」だと思う姿と同じだと言えます。

「鬼」に頼っては、さらに人生をめちゃくちゃにされて、そのことに感謝しさらに「鬼」を頼るあまりの浅ましさには、言葉を失いますが、あなたもその一人なのかもしれません。

否定された?(一)

もしみなさんが、札幌に行きたいのに福岡行きのチケットを用意していて、そのことを指摘してくれる人がいたら「教えていただいてありがとうございます」と口をついて出ませんか?

それまでに何度も確認されたはずなのに、札幌に行きたい自分が福岡行きのチケットを持っていると、これまで気付かなかったことに驚き、これまでに何をしていたのか振り返り始めたりするでしょう。

ところがおかしなことに、現実において、行き先と違うほうに向かう道を選んでいると指摘されると「否定された」と受け取って、教えてようやく気づかせて下さった相手を恨んだり憎んだり拒絶したりといった、トンチンカンな対応をする方が多くいらっしゃいます。

相手に感謝できないだけでなく、自分を振り返ることすらしません。一方で「行き先と違うほうに向かう道を選んでいるんだね。いいね」と、さらにあやまちを進める方に背中を押す相手に「そう言ってくれて安心する。ありがとう」と伝えて、味方であるように感じているでしょう。あなたのあやまちを推し進める相手は、本当に感謝すべき相手でしょうか?

「否定された」と受け取りがちな方が、極めて頻繁に見せる態度や生き方について、お伝えしました。本当にぎょっとするほど、しょっちゅうお見受けします。