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適切な自己認識を持てない方が、増えています。例えば、耐えることを寛容さと勘違いしている方は「耐えられる」と思いたがります。しかし「耐えられる」は、そう認識した瞬間のキャパオーバーを意味しています。つまり「耐えられる」と言い聞かせて自分をごまかし、あやまった自己認識を持ちます。

例えば、このような記事を書くと「もっと丁寧に観察しよう」「見あやまらないよう気をつけよう」と、発想する方がいらっしゃいます。

でも、健全な境界を保持していれば、そもそも注意深さなど一切必要なく、ぱっと見て明確に違うことなので、どうやって見誤るのか不思議に感じるでしょう。

メモリがおかしな物差しで、どんなに注意深くはかっても、どんなに真剣にはかっても、正しいサイズを図れる事はありません。自分のメモリを正し、自分を健やかにすべき局面で、「もっと丁寧に観察しよう」「見あやまらないよう気をつけよう」は、自分を変えない決意を隠す、面の皮の厚さです。

「耐えられる」と思う時、それはつまり「自分は変わらない」と宣言しているのと同じです。つまり「あなたが変えなさいよ」と周りに言ってるのと全く同じ影響力を持っています。

「もっと丁寧に観察しよう」「見あやまらないよう気をつけよう」と思うとき、自分を正す方向や自分を健やかにする気概は一ミリも存在しません。やはり「自分は変わらない」と宣言しています。

だましだまし生きていると、耐えることが大変得意になり、変容するのではなく元に戻ろうとします。もとに戻すために、つまり何の成長もない状態を続けるために、自分をパズルのように扱うために、ごまかしたりなだめることが得意になっていきます。

「注意深く観察しよう」と思ったことを学びや成長のように受けとったり、耐える力を美徳とできるなら、あなたは似た者同士に囲まれて気づくこともできないだけで、相当狂っています。このように、悪循環の中にちんまり居座り続けようとすることが、鈍さであり弱さです。