あなたの良さをわかるのは、わたしだけ。

「みんなにはよく言われていないみたいだから、僕が愛してあげなくちゃ」「私以外に、あなたの良さはわからないのよ」こんな風に思ったり、思われているケースは、かなりの数にのぼるでしょう。

振る舞いレベルでは、大切にされていたり大切にしていたり、会話を思い出しても、理解していたり理解されていたと認識されていることが多く、これがいわば呪いだとは気づかない人もいらっしゃるようです。以下と同じことだからです。

「僕のところに戻ってきてほしい。君は外では価値がないんだから。ね?」「わたしだけがあなたを理解し、あなたをかけがえがないと思っているのよ。他の人はあなたのことなんて、理解できないんだから」

もっというと、これを言われた側からすれば「自分は価値がない」と刷り込まれているのと同じになります。価値のない自分が「僕」のところや「わたし」のところでだけ、価値を感じさせてもらえるという仕組みだからです。

そうすると、そもそも「僕」や「わたし」以外を、信じることができなくなってしまいます。該当しない人、例えば自分が働く会社の社長を見て「どう思われているんだろう…先月は運がよかっただけって思われてるのかな?」とビクビクしたり、先輩に「いつでも相談してね」と言われても、そもそも先輩の話自体スルーして聞けなかったりします。

かなり乱暴な言い方かもしれませんが、わたしたちって、記憶を取り除いたら、無ですよね?死んじゃえば、灰となって、わかりやすく大地の一部です。つまり「わたしは無だよーなんにもないんだよ~」という意識から始めていくと、この呪いから自由になることができます。

制限をかけると、道に迷う。

「ゲームは30分だけよ」と言われたら、大人の目を盗んで35分できたときに、その子は「やった!」と思うと思います。「使っていいのは3万円」と言われれば、二番目に欲しかったものとか三番目に欲しかったものを買ってしまったり、あるいは小さなものをたくさん買って、後でなんだかなと思ったりして、本当に欲しいもののために、その3万をプールしておこうという発想は出ないことの方が多いと思います。

わたしたちは制限をかけると、本当に欲しいものを見失いやすくなります。上は時間とお金の例で書きましたが、他にも、例えば「あの人を好きになっちゃダメ」と思うほど、あの人を好きになる確率は高まってしまうのです。本当に好きな人が別にいたとしても、好きという気持ちがあの人に対してそもそもなかったとしてもです。

逆手にとって「(嫌な)家計簿をつける作業は、1日に5分しかしちゃダメ」「眠いし疲れてるし、(嫌な)勉強は今日は10分しかしちゃダメのように自分に言うと「やーった。10分しちゃったもんね」のようになって、実際には作業が進むことになります。

どーんと何十万も手にする方が「貯金しとこう」という気持ちになるのも、同じ仕組みです。普段気にしているラインをうんと超えた額なら、それは制限がないような気持ちにさせてくれるから、逆に本当に欲しいものを見据えられるようになります。一億あったら?と真面目に試算してみると、今欲しいと思っているものの大半は、欲しくなくなる方が多いです。

だから、お客さんに対して「これを入れ込むのは、ちょっと難しいんですけど」なんて、制限をかけると、当然お客さんは「これ」が本当に欲しいものだったかよりも、その制限を超えようという動きをしてしまって「そこをなんとか、お願いしますよ!」と、言い始めます。だから、お客さんにやたらと「そこをなんとか」とごり押しされがちなら、お客さんの前では「ここからここまで請け負っています」という範囲を見せることです。お客さんにもご自身にも、制限ではなくて範囲の方をみせると、みなさんの胃もキリキリ痛まなくてすむでしょう。お客さんも本当に欲しいものを見失って、時間を無駄にすることがなくなりますから、一石二鳥です。

どうしても止められない。

「どうしても止められない、やめたいと思っているのに、こんなに工夫したのに。どうして!」と悩んだことがある方もいらっしゃると思います。でも、このどうしても止められないのも、他人の感覚を生きているから、そこに尽きます。

「こんな工夫をしたらどうだろう?」「こんな風に捉え方を変えたらどうかな?」と思って「あ、ついにできたかも!続いている!」「おぉー変われた!これだったのか」と思っても、また何だか崩れてくるのも、結局、不快に酔う脳のままだからです。

不快を究極的に一言でまとめるなら、それはもう他人の感覚になります。自分の感覚を生きていなくて、他人の感覚を生きているとき、わたしたちは不快なんです。

「あの人は最近こういうものに夢中だから、次の誕生日にはこれをあげると喜ぶかな?」そんな良さそうに見える思考だって、自分と相手は違うという壁が立ちはだかるから、不可能へのチャレンジです。その不可能へのチャレンジを乗り越えるために、他人の感覚を生き始めてしまう、そして「きっとこれが好きだ」という解をみつけて、誕生日には「何でこれが欲しいってわかったの?すごーい!」と言われて「贈り物上手だね」と言われて、気をよくして、どんどん他人の感覚を生きるようになってしまったりします。

心のままに生きるということを、みなさん誤解していらっしゃると思います。それは、アップダウンの激しい、泣きながら怒るような、その後にケラケラ笑うような、山のお天気みたいな状態の真逆で、穏やかです。喜んでも、その後にセットで落ち込みはついてきません。

どうしても止められないもの・ことがあるなら「他人の感覚を生きている時間が、自分の人生を占めてしまっているんだな」と受け取ってみませんか?これからは、ただ自分の感覚を生きていけばいいのです。オンライン・ワークショップ「息を吹き返す」は、今夜21時締切です。

ダメな自分

ダメな自分と思ってしまう時、みなさんは既に自分の感覚で生きていないことに、お気づきでしょうか?他人の感覚、多くはお父さんの感覚やお母さんの感覚や奥さんの感覚やだんなさんの感覚(や職場の上司の感覚や机を並べる同僚の感覚や毎晩いくバーのマスターの感覚や毎朝行くカフェのオーナーの感覚)を、生きているのです。

例えば、毎日頑張っているつもりなのに、会社で嫌なことがあって「もう会社に行きたくない。休みたい。あぁでも、それだとますますダメな自分」と思う時、実は、家族のために文字通り休みなく主婦業を続けたお母さんが「もう休みたい!」と思った感覚を、知らずに受け取って生きていたりします。その後で「いや、でも休むわけにはいかない。あちこちに迷惑がかかる。休むなんてとんでもない。これ以上ダメな自分になって、どうする!ダメだからこそ、がんばるんだ」と、打ち消します。それは、来る日も来る日も会社への行き来を繰り返した、勤勉なお父さんの感覚で、それを知らずに受け取って生きていたりするわけです。

自己否定って、そのセリフの文字面だけ見ると、純粋に自分が自分にしているように見えますが、それはあなたに言葉を真に受ける性質があるから、そうなるのです。この文脈ならこの言葉はこういう意味だとか、表情や身振り手振りやその後のLINEのやり取りなど総合的に判断してあれはこういう意味だと、全体をかんがみての判断を、あなたができていないだけです。

「自分はダメだ」「もうすぐ定年なのに、自分はこれまで一体何をしてきたのか」「もっと強くならないと」そんな風に自己否定が始まるとき、ちょっと立ち止まって「あ、他人の感覚を生きているよ」と、自分に言ってあげると、今までにない解決の道が開けると思います。オンライン・ワークショップ「息を吹き返す」のお申し込みは明日までです。

この世は平等なのか?

「平等な社会にしましょう」「人はみな平等なんです」こんなこと、スローガンや宗教の教義だけでなく、学校や偉人の言葉などでも聞いたことがあるでしょう。

でも、大人になるほど、全然平等なんかじゃない世を目の当たりにします。そもそも、兄弟姉妹間でも平等はなかったはずです。親の愛情は平等に降り注がれるはずだと思っていた兄や姉のあなたは、当時悩んだはずです。

さて、そもそも平等は必要でしょうか?平等って、どんな状態か微に入り細にわたり描いたことはありますか?多くの方が、平等と色眼鏡をかけて人を見ないことや、平等と同じであることをごっちゃにしています。

でもそれをごちゃごちゃ考えて賢ぶる前に「世の中は平等じゃない」(≠世の中は平等であるべきじゃない)と受け入れると、ふぅっと楽になりませんか?楽になったなら、話は簡単で、ただ現実を受け入れられずにもがいていたと言うことです。現実は、世の中は平等じゃないと言うことです。

「世の中は平等であるべきだ」「親の愛情は平等に降り注がれるべきだ」と、実は怒りつづけていたから、つまり現実を受け入れていなかったからこそ「世の中って平等じゃないんだ」と受け入れて楽になったんですよ。

世の中は平等じゃなくて、ただありとあらゆることが違っていて、正当には比較することができない位、あらゆることがただ違っているだけです。

貯金は減るが、浪費が止まらない。

貯金をどんどん切り崩しながら、ちっとも節約できないし収入も上がらないことに焦ったりする場合、自覚のない怒りがあなたをドライブしていたりします。

それは「こんなに苦労したんだから、お金が手元にあっていいはず。つまり、使っていいはず」という怒りです。苦労したことへの償いとして、せめてもとお金を求める怒りがあったんです。

もちろん、冷静に考えることができたら、つまり客観視できたら、そこでお金は使わないわけですが、認識できていないわけだから、客観視もできませんよね?

「こんなに苦労してきて!自分ばっかり。世の中は不公平だ!」という思いがあって、その不公平を埋めてならすために、お金を使ってきたし、止まらないのです。だから、そもそも、世の中は不公平なのかというところを、しっかり見直す必要があります。

結論から言うと、みんな違う意味で苦労していて、中身は似たり寄ったりなのです。親の借金を返すために新聞配達していた子は、部活をのびのびやっていた子がうらやましいでしょう。でも部活をのびのびやっていた子は、家で精神病の親に悩まされていて、部活が唯一の息抜きだったりします。そんなに食べているわけでもないのに太ってしまう子は、スタイル抜群でモテモテの子がうらやましいでしょう。でも、スタイル抜群の子は妹がずっと入院していて、いつも親の目は妹に注がれていたりしたのです。

だから「だいぶみんなと同じ」と声をかけてあげると、内にあった世の不公平を埋めてならす動きが消えるので、お金を使う必要がなくなります。子供は部分しか見ないものですが、その部分しか見えていない自分を抱えて大人になって、世の中に適応している風に仕事できる風を装ってしまうと、あの時の怒りがやがてこんな風に自分を困らせる展開を引き起こしたりします。

恐怖を隠す怒り

主観的な人は「いつもこうなる」「やっぱりね」といった口癖を持ちます。自分の想定内だということにして「この状況は整理されている」「私はこの人の気持ちを正しく想定できていた」と、自分に対して印象づけられるからです。そうすると、少し気持ちが整う気がしてしまうのです。コントロールできる錯覚を覚えることで、未来に起きうる危機を減らせたと錯覚します。

「いつもこうなる」「やっぱりね」といった口癖を持つ人を、心の中で駆り立てる声は「普通にならないと。みんなと同じにならないと。見捨てられないために」です。だから「やっぱりダメだ…」という声には「また普通になれなかった、みんなと同じになれなかった、どうしよう…、見捨てられてしまう」という、切迫感がギュウギュウに詰まっています。

そこで「普通になるために、もっとこうしよう」「みんなと同じになるために、これを頑張ろう」としていくほど、自分へのダメ出しが、自分の中に響くだろうと思います。そうなると「もっと意識的にこれをしていくぞ!」と気合が入った状態になって、緊張状態が続くようになります。まるで、見張られているかのようです。そうするとその内「こんなに頑張っているのに、わかってもらえない…」と錯覚し、世の中のあれこれをつかまえては、怒るようになります。

でもこの時、世の中のあれこれの本質的な解決につながらない範囲で怒ります。本質的な解決は望んでいないからです。怒りという不快な状態が、必要なのです。なぜなら、不快で酔う脳を持っているからです。いわばお酒の代わりに不快で酔うことで、もっと奥にある見捨てられる恐怖は感じずに済みます。だから、本人も「怒りっぽいんだよね~」と、キャラの一つにしたりしてしまって、怒りを奪われないようにしていきます。

そういう状態に対して、消火器の役目をするのは「そう?意外と冷静だと思うよ?」「客観的に見ると、結構冷静な方じゃない?」といった声掛けです。その次のステップとして「もうだいぶ普通なんじゃない?そう見えるよ」「ダメなの?結構できるんじゃない?」があるでしょうか?自分を異物みたいに扱わないで、もう許してあげたら、その怒りすぅーっと消えてしまうかもしれませんね。

失敗や成功は、客観ではない。

「不合格だったから、失敗した。あー自分ってやっぱり…」「練習してきたことは全部出せたから、成功です!コーチにも、今日は褒められました」こんな会話を耳にしたことはあるでしょう。みなさん自身の口から、同じ構造をはらむ言葉がでたこともあるでしょう。

上記すべて、主観です。例えば、大学不合格で浪人したら、浪人生活で生涯の伴侶に出会うこともあります。不合格になった大学で翌年不祥事が起きて、その大学名を出すと就職で不利になるようなこともあります。練習してきたことを全部だせても、お客さんに「なんか見ていてつらい試合で、もうあんまり応援したくないな」と印象付けていることもあります。引退後に「点数は高かったけど、あの試合は杓子定規でつまらなかったよね」と言われて、自分の人としての器の小ささに気づくこともあるでしょう。

客観的だと、自分についても「わからない」にステイできます。「わかるようにならないと!」という主観で自分を制限していくのではなく、「わからない」という客観で自分をポーンと広げてあげることができるのです。「わからない」で「それを叶えるやり方は、ほぼ無限にありまーす」と、自分に言ってあげられるようになっちゃうのです。そうすると、心疾患をはじめとする、怒りと縁の深い病とも、疎遠になっていくでしょう。

不快で酔う脳

主観的になって、どんどん不安や怒りを追いかけて、不快な状態を広げてしまう人は、実は「不快で酔う脳」をつくってしまっています。酔っぱらうのはお酒だけじゃない上に、いろんな自己陶酔の形が、あるんですね。

「不快で酔う脳」をつくってしまっていると、うまくいっていると、むしろ不安や焦りを感じたりします。「悪いことの前触れで、うまくいっているのかも」と不安になったり、「見落としがあるから、うまくいっている気がしているだけかも」と焦って、その奥に、実は常に怒りを抱えています。この怒りはほとんどの場合、自覚されません。

「うまくいっている」というのは、ジャッジですよね?「現時点で成功!」と、自分に言っているわけです。つまり、主観なのです。「売り上げがいくらで、前年比より何%アップ、なるほど」では、止めていないということです。客観していたら「売り上げがいくらで、前年比より何%アップ、なるほど。あ、雨がやんで、青空が出てきた。散歩しよう」のように、つっかかることなく、すぃーっと前へ進むときと共に、あなたも前へ進みます。

うまくいく人は、客観的。

うまくいかない人は、とことん主観的です。うまくいく人はその逆で、とことん客観的です。

例えば、電車であなたの隣に座った人が、貧乏ゆすりをして顔を赤くしているとします。そうすると「イライラしている」と決めつけて、そこから「ほら、今眉間にしわも寄せたし!」「舌打ちもしたし!」と、どんどん決めつけを強化していきます。どんどん隣の人に気を奪われて「いつになったら止むのかな?」「なぜイライラしてるんだろう?」「雨だからかな?えっ?今、一瞬わたしを見た?私のせい?さっき、傘の雨粒かかった?」のように、脳内は大忙しになります。そして、一度も確認をしないまま、仮説を事実とすり替えて、電車を降りる頃には「隣の人がイライラしていて、すごい不快だった!っていうか、わたしのせいじゃないし!」と思ったりするのです。これが、うまくいかない人が、秒単位で行っていることです。

うまくいく人は、隣の人が貧乏ゆすりをし顔を赤くしているのが見えても、「人の気持ちはわからない」にステイして、主観的にはなりません。(まして、わたしって人の気持ちがわかっちゃうのなんて、思いません)そして、読みたかった本を読んだり、調べたかったものを調べるような、自分の楽しみの追求に入ります。だから、電車を降りる頃には「あー楽しかった」となっています。

うまくいかなかった人はその後も「今日、電車でイライラしている人がいて!」と、誰かに話しては、何度も不快なことを思い出します。真新しい真っ白い時間を、不快で染めてゆきます。一方、うまくいく人は、その後もただ「人の気持ちはわからない」に留まっているから、一日の終わりを「あー楽しかった」や「充実してた~」で締めくくるでしょう。

怒りを覚えやすい、あるいは、怒っていると見られがちな人は、客観的に見れば、とびぬけて主観的だったりするのです。主観的であると、自分を大きく制限することになるから、そりゃうまくいきっこありません。主観的であり続ければ、あまりに多くを失います。さて、ここで一つ問題です「その瞬間、クジラは120度胴体からターンし、タンカーにぶつかることを避けた」この文章の中に、主観的なところはあるでしょうか?答えはうんと下にあります。





「避けた」の部分は、主観です。

小さなことだし?

春は怒りが出てきやすい季節といえます。だから、普段怒りを感じても「小さなことだし」といなしたり、反省癖で怒りを蹴散らすから自分の怒りを認識できてない方こそ、チャンス到来です。やったね!

ちなみに、自分が怒っていることに気づけないでいると、胃痛や動悸やめまいや虫歯の頻発や休日に異常にだるいといった、身体の症状があらわれます。

「小さなことは、気にしないのが大人。そうなりたいから、形だけでもそうしよう(=気にしない振りしちゃおう)」「受けいれて穏やかでいたい」「部長(→ここには、母親など役割が入る)にもなったし、怒る前に一呼吸して、がまんがまん。歴史の流れからみたら、小さなことなんだから」

こんな風にしていると、だんだんあなたは緊張感を身に纏うようになります。その結果、ツンとした印象をうんだり、威嚇されることが妙に増えたりします。親がこんな風にしていると、子供達はいつも緊張するようになって、やはり体調不良になったりします。

それで、みなさんが「小さなことだし」と決めた瞬間をどれでもいいのですが、思い出してみてください。「小さなことだし」に当てはまらなかった怒りと、当てはまった怒りは、何が違うでしょうか?

怒りの原因をつきつめてみると、実は原因がよくわからないときに「小さなことだし」と、処理していませんか?これって、結構粗い処理ですよね?

【開催概要】オンラインWS「息を吹き返す」

怒りはどの文化においても抑圧されやすい感情の一つで、怒りを持つことを恐れたり、怒りを表すことにフリーズしてしまう人も、多いでしょう。でも、わたしは怒りをこよなく愛しています。なぜなら怒りこそが、わたしたちの尊厳をまもり、人間足らしめてくれるからです。

でも、怒りがわたしたちを阻む側面を持つのは事実です。火のように使い方次第で、深い安心へもすべてを失うことへも導いてくれるのが怒りという存在だろうと思います。それならば、怒りを悪者に貶めないためにも、わたしたちは怒りの見分け方と安全な使い方を知っておく必要があります。それを、今までにない深さでお伝えする、今までとは全く違うワークショップを、怒りの出やすい春にお届けします。意志の力でも努力でも変えられなかったことが、自然と変わっていくようになります。

一つだけよくある壮大な勘違いをお伝えするなら、わたしたちが誰かに怯えるのは、その人があなたに怒り狂いあなたが危険を感じたからではありません。あなたがどこかの時点で、その誰かへの尊敬をなくしたからです。相手への尊敬が続くなら、あなたはいつも堂々としていられて、恐怖を感じても怒りを覚えても、そこに飲み込まれて、怯えたりはしません。

その人があなたに何をしようと、あなたが相手への尊敬を持ち続けることができたなら、トラウマすらあなたを阻むことができず、フリーズすることのない、軽やかな爽やかな実のある人生が開け続けます。

~~~春のオンライン・ワークショップ「息を吹き返す」~~~

〇 場 所:スカイプ上(有線LAN接続 推奨)
〇 日 時:
- 3月31日(日)20:00~21:30 <満員>
- 4月1日(月) 20:00~21:30
ー 4月3日(水) 20:00~21:30
- 新日程(~4月20日)をリクエスト

〇 対 象: ~ 一つでも当てはまる方 ~
□ 何か足りないような感覚が、いつもある
□ 焦りのような感覚を、どこか拭いきれない
□ どっしり座っていられない
□ 歯ぎしりしたり、虫歯になったりする
□ 自分につながる血縁に、高血圧の人がいる
□ 自分につながる血縁に、糖尿病予備軍の人がいる
□ 「休んだら終わらない」と自分を戒めたことがある
□ 「要らない人」と思われないよう、評価も気にする
□ ルーティーンは、あまり変えたくない
□ 見つけたところにふらっと立ち寄るのは、好まない
□ 「バシッと言ってやりたかった」と思うことがある
□ 育児や家事や仕事など、抱え込みがちだ
□ 自覚がないのに「怒っている」と周りに言われる
□ 人に振り回されない人生を送りたい
□ 自分を傷つけない生き方をはじめたい
□ 未来をまもる生き方をはじめたい
□ 生きなおすきっかけが欲しい

〇 参加費:12,000円
〇 〆 切:3月29日(金)午後21:00
◎ お申込み:https://ws.formzu.net/dist/S86985973/

~ ご協力お願い申し上げます ~

治療が必要な方・ 喫煙常習者・飲酒常習者は、ご利用頂けません。ギフト利用の際は、守秘義務に同意したものとみなします。お子様やペットのいる方は、家族に協力をお願いしましょう。複数で進めます。静かな環境づくりにご配慮下さい。お申込み後のキャンセルは、一切承りません。参加費が発生します。

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火の恩恵を受けるように、怒りの恩恵を受ければ、あなたは息を吹き返して、自分の人生を取り戻し、あんなに消えなかった身体の強ばりやあきらめるしかなかった苦しみから、解放されていきます。

みなさんお一人お一人の春が、今までにないきらめきと深い穏やかさを孕み、背中を押すあたたたかな手に気づいていけるよう、祈りを込めて、精一杯尽くします。よかったら、いらしてください。

関係性のアップデート

親子やご夫婦であるいはパートナーがいる状態で、片方だけがコーチングを受けていたりすると、その方だけがどんどん自由になっていきます。

そうすると、相手が攻撃してきたり、足を引っ張ってくると認識できるようなことが、起きたりします。

これは原則として、それまで「うまくいっている」と思っていた2人の関係が、実は対等な関係ではなかったことを表します。

対等であれば、自由になっていく様は喜ばしいし、ただ嬉しいものです。だから、実は支配関係にあったのです。支配していた相手を支配できなくなったから、攻撃します。自分より下だと思っていた相手がうまくいっているから、嫉妬します。

この場合、抜けていたのは関係性のアップデートです。支配されていた方(コーチングを受けている方)は、自分が下/弱いといったセルフイメージを捨てることです。具体的な方法は、コーチングでお伝えします。

自慢は悲鳴

「あの頃は毎朝6時から仕事したの」「家族を食べさせるために、安心させるために、家を買って片道2時間通勤して、夕食もまともに食べないで、毎日それでもがんばったんだ」

こんな「俺は凄いんだ」や「わたしはがんばったのよ!」、つまり簡単に言うと自慢をする人を、嫌う人は多いと思います。でもね、できたら、もうちょっと深く聞いてあげてください。なぜなら、そんな風に自慢するとき、それはその人がキャパを超えて無理したゆえの悲鳴をあげていて、その悲鳴は今でも続いているということだからです。

わたしたちは、自分が消化できたことはあまり人に話しません。でも、未消化のことは何度でも話すし、その自分でも自覚のない悲鳴をうけとってもらえないと、話を盛ってでも、話し続けます。「またあの話して!」と聞く側がうんざりするような話の裏には、途切れない絶叫があります。

ほんとうに自分の等身大のことをして、消化されていたら、繰り返される話は、語られません。誇張も入りながら、自分を慰める裏には、文字通り命を削った日々があります。「今日会社でさ、こんな風に社長直々に言われたんだよ~!こんなこと言ってもらったの今回は、俺/わたしだけみたい」と、パートナーが話し始めたら、その道のりにその人が「自分のレベル以上のことを自分に強いた。そのときひとりぼっちだった。孤独だった」ゆえの、悲鳴があるという視点から、耳を傾けてみませんか?

羨む

何でもある方が良いに決まっていると思っている人は、相手の立場を想像できていません。

例えば、小さい時からある楽器の演奏に、優れていたとします。なかなか行けないような特権的だと感じる場所に招待されたり、騒ぎになるからと食事は高級ホテルのルームサービスだったりします。

そうした一部だけを聞いて、一生かかっても招待されないような場所に招待され、あんなに小さいのに食事が高級ホテルと、何十年も汗水たらして働いた自分でも食べたことのない食事をしていると羨む人は、人目を気にせずただ公園やプールで遊んだり、電車に乗って1人で自由に行動できるといった、自分にとって当たり前の選択肢の上に、さらに高級ホテルのルームサービスや特権的な場所への招待という選択肢をのせて、見ています。

ところが、小さい時からある楽器の演奏に優れているその人は、食事について、高級ホテルのルームサービスという選択肢しか持っていなかったり、特権的な場所に行ける選択肢はあっても、1人で電車に乗ることが禁じられていて、やはり手持ちの選択肢はうんと少なかったりします。

さらに、会ったことのない人にも声をかけられればにこやかに対応したり、演奏技術を保持するために周りから想像もつかないほど長時間練習をしたり、実際には(わかりやすく言うと、失った選択肢を大量に持っています。

羨む人は、自分で持っている選択肢の上にさらに相手は選択肢を持っていると勘違いし、相手がどれだけ限られた選択肢しか持っていないか、あまりに多くを失ってきた事実に、関心すら持ちません。

だけど周りからは、特権的な場所に招待されたり、高級ホテルのルームサービスを食べていることに「幸せでしょう。才能があるっていいわね」と言われ、よくわからないままただ目の前のことに一生懸命なので「ありがとうございます」と答えていたりします。

そして、小さい頃から大きな音やまぶしすぎる光や激しい移動を過剰に繰り返すことで、精神疾患を含む不具合が生じやすい状態を経験します。なおかつ、才能を利用しようと群がる大人に囲まれ、部分しか見えない羨む人に嫉妬されまくるのです。

「あの人は才能があって、お金があって、子供もいて、大きな家もあっていいわよね」と羨むばかりなら、もう少し全体を見て相手を思いやれる大人に、生まれ変わりましょう。また、羨むことがその対象を苦しめる事実に気づいてください。

期待以上をという信仰。

「相手の期待以上のことをする」ことがプロであると信じて、仕事をしていませんか? その「信仰」から、自分のレベル以上のことをするのが当たり前で、それを可能にしてくれる習慣を「いいもの」と認識していませんか?

自分の仕事のキャパをちゃんと認識しているでしょうか?家に帰って、子供の頃に夢中で遊んだように、あなたが本当に好きなことに手をつけられていますか?

もし帰宅後に、お酒を飲みたかったり、タバコを吸いたかったり、ゲームをしたかったり、漫画をひたすら読みたかったり、動画を見続けたかったり、コーヒーを飲みたかったりして、それらを自分が本当に好きなことと認識しているなら、アウトです。なぜならこれらは全て、あなたが意識の上では認識していないけれども、実は不快だと感じていて、それを何とか薄めよう感覚を麻痺させようとして、手を伸ばすものだからです。つまり、その必要がある位に、すでにあなたはキャパを超えたのです。

こんな風に、自分を無理させるものを「いいもの」「好きなもの」と思い込まないとアンバランスになる位、あなたは追い詰められていて、あなた自身が損なわれても続けているのだから、それは仕事上の信念などではなく「信仰」と呼ぶべきです。

「自分にレベル以上のことをさせたい」を「元気を出したい」とすり替えるのは、もうやめませんか?自分のレベル以上のことをしないといけないから、手を伸ばしはじめたことは、すべて身体に悪いのです。身体が悪くなれば、仕事も「信仰」もあなたから去るしかなくなります。