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わたしたちは、社会という必ずしも自然100%ではないシステムに適応していく際、快を踏みにじることに良い評価が下るという経験をします。代表例は、トイレトレーニングでしょうか?今出したいとなったとき、出せたら内臓にも負担がなく、気持ちがいいわけです。オムツをはいている時期は、出したいけど出しちゃいけないという葛藤とは無縁です。

ところが、トイレトレーニングを始めると、出したいときに出す(快)は踏みにじられて、出さないように自分に負担を強いる(不快)ができると、褒められるわけです。トイレトレーニング中の子は、もじもじし始めて「お手洗いに行きたいの?」と聞かれたり、「もぞもぞするー」というと「お手洗いに行きたいって伝えられてえらかったね」と褒められたりします。さらには「だから、さっきトイレに行っておきなさいと言ったでしょ!」「さっきも飲んだばかりなんだから、また途中でトイレ行きたくなったら困るでしょ!」と叱られたりして、快適であることに素直であることが、難しくなります。

トイレトレーニングに限らず、こうしたことがその人が深く混乱して真空パック状態になるほどの頻度やタイミングで起こっていけば、あるいは安全ではない環境におかれてこうしたことがそれなりの頻度やタイミングで起これば、わたしたちは自分の快適を追い求めたり、不快から距離をとること自体に、迷いが生じたり、何かに引っ掛かるような感覚を味わっていくことになります。

そうして、化学物質たっぷりの食品を美味しい(快)と感じるバグを生んだり、2016時間続く柔軟剤の香りをいい香り(快)と感じるバグを生んでいき、それらをいいものと認識して周りに広めるような、いのちを害する行為が始まっていくのです。そうして、地球上に病を蔓延させることに手をかしながら「自分でお金を払って買ったものを使って、何が悪い」と、思うような帰属エラーが何万と起きた状態で、いつも不安や恐怖にさいなまれ、常にハイになりいつも「うまくいっている」と解釈する現実から離れた状態が常態化し、現実との接触を喪失していきます。(つまり精神病になります)

本来のわたしたちは、お金にも気持ちよく集まってもらえるし、お金も気持ちよく使っていけるし、お金に対しても「どうせ」なんて思えないように生まれているのです。つまり、あなたも、社会システムにも適応しながら(=たまにご愛敬で不快に滞在していてもその自覚はあるし、滞在時間を決められる)、自分の快適に忠実にいられるのです。