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昨日の続きです。自由が必要な傷ついた状態の大人が虐待(abuse)に走ってしまうとき、私たちが考え直したいのは、私たち自身がその人たちにとって「傷ついているの。助けて」と言える相手であろうとしたかと言うことです。

その上で、abuseがいかに身近でみなさんも手を染めているかということを、素直に自覚していただけたら、幸いです。

子供を虐待する親の中には、いつも泣き続けている自分自身と言う子供の終わらない物語が存在します。泣き続けている自分自身を抱えながら、実際に子供である我が子を前に「この子がしてもらうように、自分も愛されたい。世話されたい」と願い、それが「この子ばっかりずるい。可愛くない」というジェラシーになっていきます。

子供をabuseする親の中に、健やかなバウンダリーを持つ人はいません。健やかなバウンダリーがないからこそ、自動的に無自覚なまま、他者を不正利用(abuse)できてしまえるのです。

ジェラシーを感じながらも、親であろうとする葛藤は、子供を盾としたり、代理とする姿勢に転じらていきます。

この段階で「親を続けるのは、無理かもしれない」と育児困難を訴える人には、どうか「そうだね、やめてもいいよ。そういう道もあるよ。これまですごかったね」と伝えてあげてください。「そんなこと言わないで」と追い詰めないであげませんか?

というのは、決して安易に里子に出すことを推奨しているわけではなく、まだ正気を保っている瞬間に親としてできる精一杯のこととして「もう自分には親は無理かもしれない」と吐露するケースがすごく多いからです。逃げて言っているのではなく、本当にベストを提案するために、一見すると弱音に聞こえることを言うことがあるのです。しかし、本人にはこのままいくと逃れようのない未来がわかっていて、それを避けるために精一杯の努力として、ちょっと下手な表現でそれを表しているのです。どうかそれを水に流さず、手のひらですくってあげてください。

明日に続きます。