Hot Water

Hot water is called “sayu” in Japanese. It is written as white water in Chinese characters. This simple hot water is traditionally drunk by babies and people who have weak stomachs while recovering from illness. Also sometimes “sayu ” is the best first drink in the morning because it helps detox and activate our digestive system.

Even though I knew about it, I prefered tea like loasted green tea or herb tea. This September, I realized that I needed more stretching or myofascial release of my upper body and it was urgent. I have been annoyed by noisy and smoking neighbours for a half year and it made my neck and shoulder very tight. And if I avoid doing them, my muscles become unbalanced.

So I started to search for movements which loosen my neck and shoulders. And I found it on Youtube. Actually it was so good. I loved the instructor’s speaking speed. I am very familiar with yoga, so it is not a high bar for me. That instructor reminded me of my yoga teacher Kyoko in Tokyo. It also made everything smooth.

After I tried one sequence for neck and shoulders, I realized that I really enjoy it. When I woke up the next morning, I thought that I wanted to do Yoga in the daytaime. I anticipated it after my work. And actually I did some routine, and suddenly I wanted to drink simple hot water not a tea. I did not want to add anything to my body. So “sayu” was the best for me. And I rememberd the yoga class by Kyoko in Tokyo. At that moment, I sometimes had mildly hot water during some pose by Kyoko’s instruction. “Sayu” was like lubricant for my body. It helps detox and move my body more smoothly. It never kicked me like coffee did.

So I keep on having “sayu” and yoga in the daytime. It is so fun for me. And doing yoga in the daytime, I needed to eat a smaller lunch. It also had a good impact on my body. Now exercising is more fun than eating. For a food-lover like me, it’s really surprising.

From Pianist to Piano Teacher

I saw a documentary about Seymour Bernstein who was a pianist. And his impactful words and his lace-like piano sound touched my heart. I was especially impressed by these following words: “I remember I became aware when practice went well, everything in life seemed harmonized. When it didn’t, I was out of sorts. The real essence of who we are resides in our talent, whatever that talent is.”

When he felt that he was satisfied with being a pianist, he decided to quit and started to live as a piano teacher. I thought that such a way of living was something I should pursue.

I could feel the love he had for discipline was his way of living. Sometimes amateurs start something which they love. But professionals try to transcend love for their job, so they think that discipline is important and pushes them. Discipline is essentially different from punishment. Because discipline comes from inside of us.

And also I think that we don’t have love in us. Love is like the air. When we love something, it is like being wrapped in air which is called love by us. It is mostly the same as wrapping a gift. So we cannot rely on that. But discipline holds us like the arms of a father. It is more reliable and realistic.

Do you have any ideal vision which you want to pursue as a human?

恋愛と結婚のちがい?

「男の人にとっては、やっぱり結婚と恋愛は違うのか」「この世代は恋愛と結婚の違いは、あまりないよね」といった外部のざわざわに耳を傾ける前に、自分にとっての恋愛と結婚をそれぞれクリアにしましょうか。

あなたにとって恋人は、歩きにくいから長時間は履けないけれど、プチプラなのにゴージャスに見えてフォーマルな場にもOKな、スタイルよく見せてくれるハイヒールのような存在でしょうか? それとも、あなたにとって恋人は、どこにでもスタスタ歩いていけて、洗えばいいから汚れを気にしなくていい反面、フォーマルな場では履き変える必要があるけれど、それでも大好きなスニーカーのような存在でしょうか?

この場合前者が、うっかり結婚してしまうと大変でしょう。長時間履けないとわかっている存在です。後者の人は結婚後に「恋愛と結婚の間にあまり差がない」と、友人達に話しているかもしれません。

人生は、パーティー会場のようにふかふかの絨毯が敷き詰められているわけでもなく、凹凸だらけで時に遠回りもする道です。

だから、しっかりと足元から支えてくれる靴を履くことは、すごく大切です。恋愛なら、ミュールみたいな相手も一時的にありかもしれませんが、結婚相手はいわば、時々お直しながら、しっかりと履き潰す靴です。お直しのきかない、していることを前提に作られたプチプラの靴は、結婚相手としてはエントリーして来ませんね。

そして皆さんは、靴でいったらどんな靴なのでしょうか? もし皆さんが、登山靴のようなら、登山家のような相手からは熱烈に求められるでしょうし、トゥーシューズなら万人うけしなくて当たり前です。相手に求める前に、自分の実像を知っていくことが、すべての始まりではないでしょうか?

Bats

When I moved to this city, I was annoyed by bat droppings. It opened a door to know about bats. And in August, I went to a bat observation event at night. It was held by a bat museum located in-between Nara and Kyoto.

Bats looks like birds, because they fly freely. But in fact, they are mammals, so their wings are actually their hands. One quarter of mammals in the world are bats. And one third of mammals in Japan are bats. But I still haven’t seen flying bats.

I learned that bats are very beneficial to humans. Because they eat 500 mosquitoes in one night. Summer time is their breeding season. And luckily I could see a rescued baby bat. It was shaking by our glance. Bat detectors informed us its echolocation sound which is around 45hz.

Roughly speaking, their sonar sound is a trace of survivor in the Jurasic period. They live in dinosaur’s shadow. It sounds like they are weak. But in fact, they are enough strong for survive rather than dinosaurs. That is the key to evolve for us, too.

今在るものを「在る」と認める。

自信のある人は、できること・できないこと・欠点・隠したい自分・得意・こう見てほしいという自分・不安・疑いなど全てが、今ここからの自分の人生をつくる素材だと認めています。

上に書いた他にも、緊張・心配・痛み・ウキウキ・喜び・悲しみ・通勤時間の車窓からの風景・寂しさ・微妙な上司との関係性・やたらまくしたてる部下との関係性・年一回集まる高校時代の部活仲間・神社のゴミ拾いができるくらいの空間への理解力など、自分の人生をつくる素材はてんこ盛りで、あります。

あなたは、実に多くの物を既持っています。それらを生かすところに行かないのは単なる傲慢で、自信のある人とは真逆の態度です。自信のワークショップは、今夜〆切です。どうぞ、お申し込み忘れのないように!

無意識のすばらしい采配

敢えて言うなら、自信がある人は、意識が無意識を信じています。自分を信じるって、意識で何かを把握しようと、自分を監視することの真逆だからです。無意識の采配の奥に、ちゃんと長期的な視野に基づく深みや美しさを見出せる状態が、自信のある状態です。

意識はジャッジをしやすくて「不安はダメで、安心はいい」とか「信頼はよくて、疑いはわるい」なんて、味気ないことを言ってきます。でも、いうならば、不安はじゃがいもで、安心はワカメで、信頼はマスタードで、疑いはしば漬のような感じで、全然別の「素材」なだけなんです。すべて「使える」素材なんです。

例えば、経理担当者が「まぁ大体あってるからいいでしょ!」だと、困ります。きっちり合わせてくれるために、疑いを持ちやすく不安を持ちやすい方が、いい仕事してくれるといえるでしょう。一方営業なら、一円まできっちりタイプより、遅刻しても「あの人は愛嬌があるからなぁ」と受け入れられるような素質が重要だったりします。適材適所で、それぞれいいとされる素材はかわりますが、素材自体にはいいもわるいも優劣もありません。

ジャッジして「中途半端で」なんて言っている人や「不安が多くて」なんていう人の話をきくと、まぁ無意識がいい仕事をしてくれています。その中途半端さが不安が、ちゃんと次の望む道を開くために、本当に必要な素材なんです。みなさんは、色んな素材をちょっとバカにし過ぎなんじゃないかと思います。あなたの腕次第で、ぜんぶ生きます。全部生かせるよう、腕を磨くんです。

自信があるから自然体

皆さんは、自信があるキャラクターのイラストを描いてと言われたら、そのキャラクターに、どんな服装をさせ、どんな振る舞いをさせ、どんなことを言わせますか?

ここで、いかにも自信がありそうな胸を張って顔には笑み浮かべている、ちょっといい服を着ているキャラクターを思い浮かべたなら、その時点で明するのは、あなたは自信がないと言う事実です。

自信がある人は、いかにもな外見はしていません。別に高い服も着ていなかったり、胸も張っているという程ではなかったり、むしろ気が弱かったり頼りなくみえたりします。

よくいる普通の、でもどこか自由な雰囲気は漂わせる、圧倒的に自然体な人、自信があります。大きな声で話したりもしないし、ふわんと話したりしますが、その場の空気を変えて気づくといなくなっていたりします。

今日は、みなさんの身の回りにいた、実は自信がある人を、探してみませんか?

自信って何?

みなさんにとって、自信とは何でしょうか?ちょっと自分の言葉を探してみて、それから続きを読んでみませんか?

わたしたちは、しばしば必死で得たはずの居場所を「これでいいのかな?」と疑います。「本当にこの職業になりたかったのかな?」「なんで、この立場引き受けたんだっけ?」「母親がこんなにきついと思わなかった」こんな感じです。

そして、一度その居場所を失って、なぜ今自分がここにいるかがわかっているとその感覚を自信と呼んだり、またそこにつながる憧れる感覚(例:初めてコックピットから空を見た感覚/初めてメスを握った患者さんの後ろ姿)を思い出すと、自信が戻ってきたように知覚したりします。

ただこれらは、比較的浅い感覚です。だからこそ失ったり蘇ったりします。自信はもっとやさしくて柔らかくて、伸び縮みするような感覚です。そして、そこにアクセスできる権限は、いつでもみなさんが持てたりします。

苦しみは停滞

あらゆる停滞は、苦しみとして知覚されます。誰かに敬意を払えなければ、その人との間にある淀みが、あなたの苦しみとして知覚されていきます。

淀んでいるから、吸収したいのか排出したいのかわからなくなって、揺れる動きが生じます。それが迷いや惑いとして、認識されます。それを「迷いがあるから苦しいのだ」「惑いがあるから苦しいのだ」と曲解するわけです。

停滞していなければ、あなたはただ純粋な喜びの中を生きられるようになります。特に、親との間が停滞していなければ、あんなに意志の力では無理だった「自分はなんて愛おしい存在なんだろう」と潤う感覚が生まれ永続し、「今の自分のまま、自分がとても誇らしい」と、胸が膨らむ感覚が生まれ、当たり前に死ぬまであり続けるようになります。

停滞がなくなる、すなわち、苦しみが消えるとは、これほどまでにパワフルに未来を守り、自信に溢れた状態をつくりだしていきます。

ゆるさなくていい

誰かに本当に敬意をはらうと、その人は輝いて見えるでしょう。その人があなたにどんなひどいことをした人であれ、本当にあなたがその人に敬意をはらうと、その人はどうしてもまばゆく見えてしまうのです。その時、あなたとその人の間のエネルギーのねじれやつまりはなく、台風一過の高い秋の空のようにスコーンと抜けています。

そうなると、もうあなたはその人をゆるす必要が消えます。その人を見れば敬意で胸がいっぱいになり、光輝いて見えるその人の前で、自分もまばゆくなっていくので、手放す・ゆるすにフォーカスする必要が消滅します。ゆるしたり、手放したいのは、まさにこの状態を得るためですが、そうではなく、この互いにまばゆい状態をダイレクトに目指した方が、すべてが近道で、一斉に起こります。というのも、ゆるす・手放すはこの誰かに敬意を真に払った状態の一部を、切り取った状態にすぎないからです。

特に、親に対してこの状態に一度入ると、二度とこの状態から抜けることはありません。そして、真の自信に恵まれます。そのために、親に尽くす必要も、親を罵る必要も、過去を隠す必要も、涙をこらえる必要も、ないのです。

自信という状態

わたしたちは、本当に他者に敬意を払えるようになると、喜びでいっぱいになります。窮屈な感覚やぶつけないように頭を下げておくような感覚は消え、すくっと立ち、余分な力の抜けた、とても楽な状態で、他者をまっすぐに見れるのです。

そして、そうするときに、誰よりも自分がまもられていきます。足元に穴があるような感じや、急にどこかから吹き矢が飛んでくるかもしれないような感覚は消えます。そんな状態のあなたを、周りはある種の神々しい感じをもって見始めると思います。

この状態にあれるとき、もっというと両親に真に敬意をはらえる時、わたしたちはすべてをとてもやさしく軽やかに感じ始められます。あなたの尊厳が守られた状態に入っていきます。その時、周りからは謙虚であり、かつ、自信に満ち溢れているように見えています。

月は欠けない、人も欠けない。

コーチングで基盤にしている考え方の一つに「人はそもそもwholeであり、欠けたところがない」があります。月は地球から見ると、欠けたり満ちたりしてみえますが、実際には、太陽と月と地球という三者の関係によって、そう「見えているだけ」で、月自体が欠けたりはしません。

(もし、月自体が欠けたり、新月の時に至っては消滅しているとするならば、毎回同じように膨らんでいくという神業をわたしたちは見せてもらっていることになります。その方がすごいかも…)

先日の中秋の名月の次の日は、満月に当たりましたが、2019年で一番小さく見える月でした。同じように大きく見える月もありますが、これもやっぱり、月自体がその大きさを変えているわけではありません。

人も同じです。その人自体は欠けたり満ちたり、小さくなったり大きくなったりしません。ただ色々な関係性の中に生きているため、欠けて見えたり満ちて見えたり、小さく見えたり大きく見えたりするだけです。

自信がない時、自分でも自分が細い三日月や新月に見えていたり、自慢げに見えるときには自分では自分が大きいと思っていて他からは小さく見えているのかもしれません。でも、月はいつもまあるくて、大きさも変わりません。変わらない喜びが、そこにあります。

謙虚さと尊敬。

「もう十分です。足りています。ありがとう」と、何の我慢も捻った思いもなく言えるとき、あなたは謙虚という状態に入ります。これは最強なんです。あらゆる勧誘を、スルーできるようになって、すくっと立ち続けられるようになるからです。

「もう十分受け取りました。十分もらっています」と言えないと、恨みになります。あなたの足元は色々がんばっても、崩れ続けてしまいます。それは、親に対してだけではありません。

「もう十分受け取りました。十分もらっています」といえるとき、あなたにはそう伝える相手の、とても美しい姿が見えています。その美しさにうっとりするのではなく、ハッとしながら、ただいつまでもその美しさをみるとき、あなたはその人のことを尊敬するという状態に入ります。

その先に、他者との調和が展開します。